リスタート ~最後の恋を始めよう~ 【前編】
笹原が言っていたとおり、怪しい雲行きは今夜もまた、季節はずれの雷をここに運んできたようだった。
ロッカールームの隅にある小さな窓から、明子は外を見た。
まだ、雨は降っていないらしい。
それでも、雲の切れ間から空を走っていく稲光がこぼれている。
空が点滅しているように、光ったり暗くなったりを繰り返す。


(帰れるかなあ)


ふと、そんな不安が明子の胸を過ぎる。


(停電にならないだけ、昨夜よりは、マシ、かな)


そんなことを考えながら、明子はコートを羽織った。


(さっさと、牧野さんのところに戻ろう)


待っている牧野のことを思い浮かべる。
それだけのことなのに、また、明子の体に火がついた。

抱きしめられて、溶けてしまいそうだった。
今まで聞いたどの声とも違う、妖しく艶めいたあの声が耳に蘇ってくるだけで、なにかがぞわりと背筋を走り、熱に浮かされているようなふわふわとした浮遊感が、明子の体を包み込んだ。


(あんなふうに、予告されたら……)
(それだけで、眠れなくなりそう)
(牧野さんの、イジワル)


耳に、牧野のあの甘い声が甦った。


-全部、俺のものにする。


それは、甘い、甘い、呪縛だった。
心が丸ごと全て、一瞬にして、牧野に縛られた。
明子の一番深い場所で、明子を苛む熱が、大きくうねり、渦を巻く。
明子の中に眠っている”牝”が、牧野を欲して、悶えているようだった。

牧野の吐息を。
牧野の匂いを。

明子は、目を閉じて思い出した。

頭の芯が、ぼぉーっとなって。
明子の口から、甘い吐息が零れ出た。


二度目の雷鳴が、轟いた。

その音で、夢から覚めたように、明子は我に返った。
危うく、ずっと牧野に囚われたまま、帰ることさえ忘れてしまいところだった。
かなり、大きな音だった。
窓がミシっと軋んだようだった。

ペシペシと、明子は両手で熱を持った頬を叩く。


(しっかりしなさいって)
(とにかく今は、浮かれている場合じゃ、ないんだから)
(大雨になる前に、さっさと帰る)
(牧野さん、徹夜なんだから。早く休ませなきゃ)


そう自分を窘めて、明子はロッカールームを後にした。
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