彼と私の饗宴
私の好きな人
私は一ノ瀬くんのことが好きだったし、一ノ瀬くんのことをずっと見ていた。だから私は、一ノ瀬くんに好きな人がいることを、ずいぶん前から知っていた。

それは、三年生に進学してしばらくたった、うっすらと初夏の気配が近づく、連休明けの暖かい午後のことだった。


「一ノ瀬くん、これ」

ざわめく昼休みの教室で、佐倉さんが一ノ瀬くんに差し出したのは、綺麗に包装された小さな袋だった。
その日は調理実習があって、私達は皆で小さなチョコレートマフィンを作ったのだ。佐倉さんはわざわざそれを綺麗に包んで、一ノ瀬くんに差し出した。

「……」

佐倉さんが一ノ瀬くんのことを好きなのは、もうほとんど周知と言って良いほど明確で、今さら特別に騒ぎ立てるクラスメイトはいなかった。

「ありがとう。でもごめん、甘いものが苦手なんだ」

一ノ瀬くんが佐倉さんの申し出を断る。それもまた、すでに見慣れた光景だった。
佐倉さんは、そっか、と少し切なそうに笑って、綺麗な包みを引っ込める。私はそれを見ていたから、佐倉さんの笑顔とは裏腹に、その両手が震えていたことを知っている。

それは別段特別なことではなかった。

一ノ瀬くんには好きな人がいるから当然だ。私はそう思った。私は一ノ瀬くんのことが大好きだったから、一ノ瀬くんが誰かを好きになってから、一段と憂いを帯びて格好よくなったことを知っていた。

「なんかごめんね。また、別の機会に挑戦するね!」

佐倉さんはそう言って、教室を去る。

その後しばらく教室の中には、すこし微妙な空気が漂っていたけれど、それも時間とともに解消した。
一ノ瀬くんはしばらくすると席を立ち、教室の外に出ていった。
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