彼と私の饗宴
ドアがひらく。弾かれたように二人がこちらを見た。

「奈々」

一ノ瀬くんが名前を呼ぶと、女は少し気まずそうに顔を伏せた。
私は、一ノ瀬くんは佐倉さんを助けると思った。手をさしのべて、座り込んだ佐倉さんに微笑むと思った。

でも。

「待たせてごめんな。行こうか」

一ノ瀬くんは、佐倉さんにはただ一瞥したのみで、奈々と言う名前らしいその女の手をとった。
もう片方の手で奈々の頭をぐしゃぐしゃと撫でると、やめてよ、と頬を膨らませる奈々の手を引いた。

そうして何事も無かったようにこちらに向かってきて、被服室のドアをすり抜ける時に私の子と一瞬だけ見て、笑った。

それは流れるような光景だった。

私は、ただそれを呆けて見ていた。私が、一ノ瀬くんが当然するだろうと思った行動が、あまりにも呆気なく覆されたので、理解するのに時間がかかったのだ。

気がつくと、被服室の前で呆然と立ちすくむ私と、床に座って僅かにふるえる佐倉さんだけが残されていた。おそるおそる被服室に入る。そして私は、ついさっき奈々が床に投げつけ、足で踏みつけてつぶれた佐倉さんのチョコレートマフィンの袋を拾った。

「……佐倉さん」

なんて声をかけていいのかわからなかった。私が名前を呼ぶと、佐倉さんはゆっくりと顔をあげた。

「だ……大丈夫?」
「うん」
「あの人、一ノ瀬くんの彼女」
「うん」
「なんていうか……ひどいね、これ」
「いいの」

佐倉さんは短くいうと、私の手からそっとチョコレートマフィンを抜き取った。

「これでいいの」

私と佐倉さんの会話は、おおよそ噛み合っていなかった。佐倉さんはふらふらと私の前を通りすぎ、そしてゴミ箱のまえで立ち止まると、チョコレートマフィンを捨てた。

「佐倉さん」
「いいの。私が勝手に好きなだけだから」

私は何も言えなかった。
好きなら何をしても許されるわけではないことは、よく考えれば誰にでもわかる。でも、佐倉さんが一ノ瀬くんを好きだと公言するので、なんだかどんなことでも許されてしまう。

それは私のように、後手に回ったあらゆる人の恋心を封じ込め、そして一ノ瀬くんもあの奈々と言う人も傷付ける。

誰も幸せにならない。

だから佐倉さんはずるい。

「部活、邪魔してごめん」

佐倉さんはそう言うと、私の返答を待たずに被服室を出ていった。

一ノ瀬くんの行動も、佐倉さんの言葉も納得できなかった。その時は、まだ私は肝心の部分を知らなかったからだ。

もはや一ノ瀬くんを待とうと言う気持ちは褪せていたけれど、家に帰る気分にもならなかった。

少しでいいから、何かに没頭して、平生の気分を取り戻したかった。
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