時は今
由貴はしばらくじっと静止していたが、曲のクライマックスあたりにある旋律を指し「ここ、涼は弾けるのかな」と指摘した。
四季は弾いていたのだが。
「え?涼ちゃんが弾けないってどういうこと?」
「他の箇所は涼が綺麗に弾けるトリルがふんだんに使われているけど、ここだけ涼の指には少し無理がある大胆な技巧になってる。涼、手は小さいはずだから、これは弾けないんじゃないかと思ったんだけど」
四季は自分の手を見て「そういえば」と口にする。
「涼ちゃんの手見せてもらったことあるけど、僕よりも小さいんだよ。確かに由貴が言うように涼ちゃんがこの楽譜通りに弾くのは厳しいと思う」
「でも旋律はこの楽譜通りに弾いた方がいい」
「どういうことなんだろう。涼ちゃんは自分には弾けないけどこういう譜面を書いたということ?」
「わからない。オーケストラ編曲はここの箇所どうなってる?」
「ちょっと待って」
四季はオーケストラの楽譜とピアノの楽譜とを並べて見比べた。
「──ああ、本当だ。ここだけヴァイオリンの大胆な旋律に合うようなアレンジになってる」
「涼のお兄さんがここだけアレンジをしたということ?」
「かもしれない。或いは涼ちゃんがお兄さんのヴァイオリンに合わせたかったとか。いずれにしても涼ちゃんが弾くのなら挑戦的な楽譜ではあるよね」
四季はそこでまた考え込む。
「難しい。ただ機械的に弾くのなら、これ以上つまらないこともないから。涼ちゃんならどう弾くんだろう」
「──。ちょっとピアノいい?」
由貴はピアノの前に座ると、まず譜面通りに鍵盤を押さえてから、譜面通りではないアレンジで弾いた。
「この編曲全体を見る限り、涼ならこうアレンジしたと思う」
「…あ。そうだね。今のが涼ちゃんっぽい」
さすが彼氏、と四季は目から鱗が落ちたように言う。
「もしかしたら、この曲、由貴が弾く方がいいとか」
「それはない。四季と涼には弾けても、俺、それまでの研鑽の絶対量が足りないから」