時は今
涼のピアノを聴いているうちに由貴はその音に惹き込まれるように、弾き終わる頃には涼のそばに立っていた。
「──いい曲」
たったひとこと、そう口からこぼれる。涼が目をあげて嬉しそうに言った。
「会長も弾く?」
「俺は楽譜がないと弾けないよ」
「涼、持ってる」
音楽科で使っている楽譜と同じそれを取り出した。
「会長、高音と低音どっちがいい?」
「え?この楽譜を一緒に弾くの?」
「楽しめたらいいの。楽譜通りじゃなくていいの。右手と左手の旋律がひとつの音楽になっていたらいいの」
1台のピアノをふたりで弾くなんて小さい頃に四季と弾いて以来だ。
由貴は左側にかけ、涼が右側にかける。
涼の弾く高音が先刻弾いていた時よりもずっと豊かな彩りで鳴り始めた。
右手だけの旋律を両手での旋律にするとこうなるのか──。
(すごい)
由貴は左手の旋律を最初は楽譜通りの音で弾き始めた。
涼はさすがに四季レベルの曲を弾いているだけあって、弾きながら譜めくりまでしていく。
(涼の音──。もっと引き立たせる音があるのに)
由貴は途中から涼の次に弾く音を捉えようとするように、弾き方を変えた。低音が高音の重荷になりすぎないように、けれども深みのある大自然のように。
ややして、低音と高音がカノンのように鳴り出した。
涼が横目で由貴の表情を窺う。目が合う。
楽しい。
弾き終えると、どちらからともなく倒れていた。
「会長、すごい」
「すごいって…。涼、何この曲。手が死ぬから」
「会長、死んじゃだめ」
会話まで変になっている。
──と、そこに帰宅した隆史がぽかんとつっ立って見ているのに、由貴が気づく。
「あれ、親父。お帰り」
「先生、お帰りなさい」
「…由貴くんたち何してるの?」
「何ってピアノ」
「じゃなくて涼ちゃんのその服」
「ああ、さっき雨に降られたから。ね」
由貴の言葉に「ね」と涼が返している。
隆史は思いっきり脱力してよろよろと壁にもたれかかる。
「お父さんは水飲んで来ます」
ぱたぱたと行ってしまった。
由貴と涼はそれを見送って、何となく可笑しくなってふたりで笑い合ってしまう。
それから軽くキスをした。