時は今
翌朝、まだ暗いうちに目が醒めた。練習曲を弾きながら『森は生きている』の曲のことを考えていたが、急に忍の音が聴きたくなった。
歌でも、ヴァイオリンでも。
桜沢静和の音を聴いた方がいいんだろうか、と考えて…やめた。
(忍も涼ちゃんも桜沢静和の音の再現を望んではいない)
その先にあるものを望んでいるのだ。
庭先に出ると祈に会った。
「おはよう、お父さん」
「おはよう。…四季、めずらしいね」
「うん。何してるの?」
「ああ、ここに何か置こうかなと思って」
祈は元々美大への進学を希望していただけあって、空間を見ることが好きである。
手にスケッチブックを持っている。「見てもいい?」と四季は言い、スケッチブックをめくり始めた。
何気なく描かれているようで選びとられた描線が、平面上のスケッチブックに空間を造り出している。
「絵も音楽と同じなのかな」
四季が祈の絵に目を落としながら呟く。
「楽譜もそうだけど、選ばれてそこにある必然のようなものがあるよね」
「…ああ」
祈は首をめぐらせて納得したように言った。
「そこにある偶然のうちから選別されるもの、という素材があるね。それがなければ、たとえば写真ならいつまでもピントが決まらない」
「うん」
「どうしたの?『森は生きている』の曲、難しい?」
芸術に関する天分があるからか、祈はさらりと四季が気になっていたそれを指摘してきた。
「わかるの?」
「うん。四季にしては遠慮がちに弾いているかなって。迷いがあるよね」
「──自分ではわからないんだけど。でもピントと言えば定まってはいない感じがする」
「四季がいちばん気になっているものは何?」
「え?」
「僕ならたとえばすごくいい景色を見た時、早瀬ちゃんにも見せてあげようと思って描く。とてもいいものだけでもいいし、早瀬ちゃんにっていう気持ちだけでもいいけど、その2つがあるとよりいいものが描ける気がするよ」