時は今
「──信じられない」
四季の部屋のソファに座りながら、由貴が不機嫌そうに言った。
入学式の終わったその足で四季の家まで来たのだ。
四季は「何が?」と尋ねる。
こんなに不機嫌な由貴もめずらしい。
「数学担当が綾川隆史!」
叫んだ由貴に四季の表情が一瞬固まり、それから「えー?」と笑いだした。
「何で?ほんとに?隆史伯父さん、白王に赴任してきたの?」
「親父、そんなことひとことも言わないし!何だよ、数学担当って!俺、今日初めて親父の赴任先がうちの学校って知ったんだけど!」
もう頭来る、と怒っている。
「──怒ったから今日は夕飯作らない。四季のとこで食べてく」
「えー?伯父さん泣くよ」
「知るか」
ソファに寝転ぶ。
由貴の家は父子家庭だ。母親が早くに他界してしまったため、父ひとり子ひとり。そのためか父親の隆史は由貴を溺愛している。
こんなふうに何を思ったのか、由貴の通うであろうはずの高校に赴任してくるくらいには。
四季はピアノの楽譜に目を通していたが、やがてピアノの前に座ると弾き始めた。
由貴は寝転がったままそれを聴く。音が足りない。ヴァイオリンの。
弾いているのはベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第5番『春』。
(ピアノだけの演奏だとこうなるんだ)
四季の中では実際はないはずのヴァイオリンの音が聴こえているのだろうか。そういうピアノの音になっている。
ピアノだけの第1楽章を弾き終わったところで、由貴が「誰のヴァイオリンを聴いていたの」と訊いた。
「桜沢静和」
「……」
「本当なら今月あるはずだったコンサートで演奏する予定の曲だったらしいんだけど。去年演奏された『春』を聴いていた」
今年の演奏を生で聴いてみたかったんだけど、と言っている。