時は今
気になった楽譜をひとつだけ購入した。
ハノンやブルグミュラーといった練習曲集なら家に何冊かある。
四季から楽譜を借りようかとも考えたが、どうせなら四季がまだ弾いたことのないような曲に挑戦してみたかった。
選んだのはジャズ・ピアノ・コレクション。
不協和音が入っていることで美しく聴こえる音楽──ジャズ。
四季が弾くのもまだあまり聴いたことのない音楽なだけに自分には敷居が高いだろうかという気がしたが、何となく気になって買ってしまった。
目標があると練習に身が入るというのもある。
楽器店で流れていた音楽が耳に心地良くて、小さく口ずさみながら由貴は歩いていた。
なだらかな丘陵を登ってゆく。
家に帰る道としては少し遠回りになりそうだったが、その日は何となくその道を通ってみたくなった。
見晴らしがよく、空気もいい。
(こんな道、あったんだ)
由貴は新鮮な気分で、登ってきた道を振り返った。
(ああ──)
夜景が綺麗だ。
由貴は嬉しくなって、草の上に腰を下ろした。
「──?」
しばしして由貴は、綺麗な音楽が聴こえてくることに気づいた。何処からだろう。
じっと耳を澄ます。
ヴァイオリンだ。
この旋律は…。
「──春?」
呟いた。ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第5番。
四季が弾いた『春』はピアノだけだった。今度はヴァイオリンだけ。いったいどういう日なんだろうか。
「──もしかして、聴こえてた…?」
静和に習いながらヴァイオリンを弾いていた忍が、その手を止める。
静和も不思議そうに白王の制服を着た少年の方を見る。
「僕たちの姿は見えてはいないようだけど…。でも今まで道を通って行った人に聴こえてはいなかったのに」
制服の少年はあたりを見回している。
「変だな…。確かに『春』聴こえたのに」
それで静和と忍は、自分たちの音を聴く者がいるのだ、と確信する。
「──静和…」
「うん」
何者なのだろうか。