時は今
器楽室を出ると、少し離れた器楽室から、ピアノの音が聴こえてきた。
(──?)
『春』だ。
ベートーヴェンの。
四季の弾いていたピアノだけの『春』。それと同じ旋律。
誰だろうと思い、それが聴こえてくる器楽室を探す。扉にある窓ガラスから中を窺い息を呑んだ。
桜沢涼だった。
由貴は窓ガラスからそっと離れ、流れてくる『春』に耳を澄ませた。
四季の弾いた『春』よりも、ゆるやかで幻想的だった。何処かに連れて行かれそうな錯覚に陥る。
(そういえば、まだ一度も桜沢静和のこと、聞いたことない──)
聞けなかった。
桜沢静和が亡くなったのが、桜沢涼に出逢って翌日のことだ。
彼がそういうことになっていなければ、聞けたのかもしれないけれど。