時は今
涼の弾く『春』に身を委ねたまま、ぼんやりと考え込んでいると、不意に校内放送のスイッチがオンの状態になった。
テストでもしているのだろうか。音楽が流れてくる。
あろうことか、その音楽も『春』だった。
(何、これ──)
由貴はだいぶ奇妙な感覚にとらわれる。春、春、春──。春の連鎖。
(いったい──)
考える間もなく、器楽室でピアノの鍵盤がバーンと乱暴に鳴り、バサバサバサ、と何かが落ちる音がした。
「桜沢さん!?」
由貴は思わず器楽室の扉を開ける。
ピアノの周りに楽譜が乱雑に散らばっていて、ひっくり返ったメトロノームが、カチカチと狂ったリズムを刻んでいた。
椅子が倒れて桜沢涼が踞っている。
校内放送の『春』から心を閉ざすように耳を塞いでいた。
「桜沢さん…?」
震えている。
近づこうとすると、小さく丸くなった背中がびくりと反応して、耳を塞いだまま涼が由貴を見た。
「──」
今度は固まってしまったように由貴を凝視している。
ただ事ではない様子の涼に、由貴はなだめるように声をかける。
「大丈夫…?」
「──。お兄ちゃん」
「え?」
「お兄ちゃんが弾いてるの?」
校内放送のことだろうか?
「ううん。これは放送。テストしているか何かだと思う」
落ち着いた声で答えると、涼の緊迫した表情がふっと和らぎ、涙腺が壊れたように涙があふれだした。
「お兄ちゃんは何処?」
「──」
「何処に行ったの?」
もしかしたら、たった今まで、静和のヴァイオリンを聴きながら弾いていたのだろうか。
そんな言い方だった。
由貴はメトロノームを止める。
無情に『春』は流れ続けていたが、涼にも由貴にも、もうそれは聴こえてはいなかった。