時は今
「桜沢さんは…ピアノを弾く理由を考えたことある?」
由貴はふと気になり、そう聞いてみた。
「理由…」
涼は考えてやがて顔をあげた。
「ピアノを弾いている時、涼は涼になれるからだと思う」
「そう」
「委員長は?ピアノをやめてしまったのはどうして?」
「──家のピアノは母親との思い出があるから…」
言って、自嘲的に微笑んだ。
「…違うか。ピアノが本当に好きなら弾き続けていたのかな」
「──。委員長」
涼の手が、由貴の手を握っていた。
「ピアノとお母さんは比べられないよ」
「……」
「そんなふうに傷つくことないよ」
涼の瞳は真っ直ぐだった。
由貴の中で何かが救われた気がした。
弾けなかった時間にも意味があったのだと言われた気がして。
「──ありがとう」
涼に言葉を返す。それで涼がふわっと花のような笑顔になった。
心地よい風が吹き抜けてゆく。新緑の匂いがする。
そういえば入学式の日の帰りにも、『春』を聴いたのだ。
いつもは通らない、丘の上で。ヴァイオリンだけの──。
「桜沢さん、向こうの丘の上の道、通ったことある?」
「え?…ううん。どうして?」
「少し聞いてみただけ。何でもない。気にしないで」
「ふーん…」
涼がその道を通ったことがあるなら、その時聴こえてきたヴァイオリンの『春』と何か関係があるのかとも思ったのだが。
(疲れていただけかな…)
その『春』のことは話さずに、由貴は心の中にしまいこんだ。
*