時は今
ツェルニー30番は過去にひととおり弾いてきたことのある練習曲集だ。
でも小学生の時に弾いて仕上げたテンポは、実際に指定されている速度よりはゆるやかだったと思う。
高校生の手で弾くツェルニーは小学生の時とはタッチが違っていて、思うように弾くのはなかなか難しい。
「由貴、3連符で転ばないで。ゆっくり弾いていいよ」
最初から四季の指摘が入って弾き直す。
練習しているうちに、ある程度速いテンポで弾けるようになると、今度はゆっくり弾いた時に指が転びやすくなるのだ。
指に、『速く弾こうとする』変な癖がついてしまっているのである。
「左手は硬くならないで。休符意識して」
軽く二度目の指摘が入るが、今度は止まらずに最後まで弾き終える。由貴はほっとしたのか、深呼吸する。
「何か緊張する…。こういうの久しぶり」
「僕も緊張しているんだけど」
「え?見ている方も?」
「指使いとか強弱とか…。変な教え方したら責任感じるよ」
「ああ…。そっか」
教える側も楽ではないのだ。
「先生、弾いて。お手本」
由貴がいたずらっぽく言うと、四季が困った表情になった。
「先生、今日、和服なんだけど」
「あはは。着替える?」
「…どうしよう。弾けるよう努力してみる」
四季がピアノの前に座る。袖を少し捲り鍵盤の上に手を置いた。
テンポはアレグロだが、和服を気にしてか、それとも由貴が練習しやすいようにか、由貴が弾いた速さとアレグロとの真ん中くらいの速度で弾いた。
練習曲なのに四季が弾いただけで曲に表情が出る。思わず聴き入ってしまう。
聴いていて『自分も弾きたい』と思わせる音なら、それだけで『先生』の役割は果たしているのではないか、と由貴は思う。