時は今



 四季の練習の邪魔をしては悪いので、由貴は「そろそろ帰るね」と言った。

「あ…。四季、練習し過ぎはダメだからね」

 四季は体調が優れない時でも弾ける限りはピアノを弾いていることがある。

 それで、さっきのようなことがしばしばあったりもする。

 四季は「大丈夫」と柔らかく返した。





 四季の家を後にして、由貴は歩き始めた。

 手に抱えた楽譜に嬉しい気持ちになる。

 と──。

 一匹の猫が由貴の前を歩き出した。

 灰色の綺麗な猫。

 何処か惹きつける雰囲気を帯びていて、何処からやってきたのだろうか、と思わせた。

 野良猫とか飼い猫とか形容するには少し違和感を覚えるくらいに不思議な品がある。

 由貴が立ち止まると、猫は立ち止まり、由貴を振り返った。

 見つめている。

「何?」

 由貴は思わず猫に話しかける。

 猫はゆるやかに尻尾を揺らし、先を歩き出した。

 猫は由貴と一定の距離を保ったまま前を歩き、度々由貴を振り返る。

(何だろう?)

 由貴は変に思った。

 この猫は何か伝えたいことがあるんだろうか。

 やがて、ある道の分かれ目まで来た。由貴がいつも通る道を行こうとすると、初めて、猫が由貴のすぐ足許まで近寄って来て、由貴の行く手を阻んだ。

「え?何?」

 猫は「こっち」と誘うように、もうひとつの道の方に立った。

「俺、家に帰るんだけど」

 由貴が話すと、猫は「ニャー」と鳴き、由貴の制服のズボンを軽く噛んで引っ張った。

「ついて来て欲しいの?」

「ニャー」

 明らかに伝えたいことがある猫だ、と由貴は感じる。

 由貴がついて来てくれる様子を確認すると、猫はまた由貴の先を歩き出した。

 この道はあの丘に行く道だ。

 由貴は入学式の日に聴いた、ヴァイオリンを思い出していた。



     *



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