時は今
猫は丘の上の眺めのよいところまで来ると、由貴を振り返った。
『綾川由貴さん、ですよね。僕の声、聴こえますか?』
猫は鳴くことはなく、気持ちだけを伝えてきた。
由貴は驚いて猫を見つめたまま立ち尽くす。
「──そうだけど」
『良かった。もしかしたらここなら、あなたには僕の声が聴こえるかも、と思って、ついて来て欲しかったのです。ついて来てくれてありがとう』
「うん…。それはいいけど、俺に話があるの?」
『そうです。座ってお話しましょう』
猫は丘にある東屋に歩き出す。由貴は猫と一緒に東屋の席に身を落ち着けた。
『私は桜沢静和です。このような姿ですみません』
「桜沢静…和」
由貴は信じられないものを目の前にしている気がした。自分は夢でも見ているんだろうか。
「涼の…お兄さん?」
『はい。先月、私は事故でこの世の者ではなくなりました』
「……」
『難しい話は抜きにしましょう。私自身、死んだ時、自分がこのようになるとは想像してもいなかったものですから。──ただ、この丘の上は、私の想い出の場所です。ですから、私がここに繋ぎとめられていたり、あなたのように、私のような者の音楽を聴くことが出来る方がいると思うのです』
「音楽って──もしかしてヴァイオリンの『春』?」
『そうです。──それで、私はあなたになら、私の声を聴いてもらえるかもしれないと思い、もう一度、この丘を通るのを待っていました。けれども、あなたには普段歩く道ではなかったのか、その後、ここをあなたが訪れることはなかったので、こちらから何かあなたに伝えられる方法はないものかと、ここ数日、登下校の道であなたに私の存在に気づいてもらえるチャンスを狙っていたのです』