時は今
静和は由貴の感情を受け止めるように言った。
『悲しまれることもありません。心はあなたのものです。あなたが大切に思った人との思い出も。そうした心の柔らかさは私のような者の音楽をも感受してくれたのです。もしあなたが今のあなたでなければ、この声を聴くことはなかったかもしれない』
今の自分でなければ──。
不思議な感じがした。
もし綾川由真が死んでいなければ、今の自分はいなかったのかもしれない。
帰らぬ人に思いを馳せることも、別れや死というものを深く考えることも無かっただろう。
桜沢静和の言うように、静和の音楽や声を、こんなふうに聴くことも。
「何か、心残りがあったの?」
由貴は静和に尋ねた。
「俺は母が死んでしまった時、死ぬ前にどんなことを考えていたんだろうって、気になった。伝えたいことはあったんだろうかって。そんなことを話すこともないまま、死んでしまったから。でも母はあなたのように、こうして伝えて来てくれることはなかった。──幸せだったのかな」
そこで、言葉を区切り静和の言葉を待つように口をつぐんだ。
猫の姿の静和は尾をぱたりとふり、遠くを見た。
『伝えられなかった想いは伝えられなかったままに、偲ぶ人の中にその人は生きます。たとえば、偉大な音楽家は世を去っても、書かれた楽譜を読み取ろうとする後の者がその人の音楽を生かし、語り伝える』
「……」
『私にわかることは、私は肉体を失った者になったということでしょう。生きている者はそれを死と呼びます。あなたのお母さまもそうであるはずなのですが、私にはあなたのお母さまがどうなったのかはわかりません。もしかしたら私のように生前とは別のものになっているのかもしれませんが、想念がふれあっていないので、わからないのです。生きている者も同じことで、想念が通っている者同士は相手がいると相互に認識出来ますが、想いを寄せる人でなければ、何事もなかったかのように通り過ぎてゆく。私にはあなたのお母さまの想っていたことは語ることは出来ません』