時は今
由貴は木の方に歩き始めた。静和を腕に抱いた四季も由貴について行く。
木の下まで来た由貴は、今度は冷静に木を見上げた──。
蜘蛛の巣に捕らわれた蝶のように、木の上で見えない糸にでも捕らわれているように浮かんでいる揺葉忍が、ふわり、と寝返りを打った。
「あ…」
目を、開けた。
「静和…?」
揺葉忍は声を発した。肉声だ。明らかに猫の桜沢静和の話しかける声とは違う。
生きている人間の声。
「静和さん?」
…気づくと、四季の腕の中には、もう桜沢静和はいなかった。
揺葉忍が目を覚ましたからか。
「──静和」
普通ならば忍の目は、もう、すぐ真下にいる由貴や四季の姿を捉えていていいはずだった。
が──彼女にはふたりが見えていないのか、彼が何処に行ったのかを探すように目をさ迷わせている。
姿はなく、肉声ではない、あの声だけが響いた。
『忍、ふたりの姿が見えないの?』
「ふたり?」
忍は声だけの彼と会話をし始めた。忍の視線の位置からするに、桜沢静和は忍の目の前にでもいるようだった。きっと人の姿の桜沢静和がそこにいるのだ。
由貴と四季にはその姿は見えなかったが。
『覚えてない?この間、忍のヴァイオリンを聴いた、男子高生がいただろう。彼が忍のために来てくれた。忍が本来いるべき世界に戻ってこられるように』
「……?」
やはり忍には見えていないらしい。見えなくなっているのか。
「揺葉忍さん」
由貴は忍に届くように、呼びかけた。
「俺にはあなたの姿が見えている。逆に人の姿の静和さんは見えません。あなたは本来俺や四季の姿を目にしていないといけないのでは」
忍には由貴の言葉は聴こえたらしい。呆然と由貴と四季の方を見て──初めて自分がとんでもないところにいるのを認識したように怯えた表情になった。
「…どうなっているの」
忍には由貴や四季の姿はまだはっきりとは見えていなかった。が、自分がいるところが空中であるらしい認識はしたようだった。
「誰?見えない。…静和じゃない。静和の声とは違う」
忍の方も動揺しているのか、声が上ずっている。
由貴は冷静に言った。
「俺は綾川由貴。涼のクラスメイトです。忍さん、降りてきてもらえませんか。普通に考えるとあなたは今いつ落ちてもおかしくないところにいる」