三日月の下、君に恋した
 きっちりとネクタイをしめ、ウールのロングコートを着て、高そうな革のブリーフケースを提げている。三十代半ばくらいの、いかにもやり手のビジネスマンといった感じの男性だった。


「もうお迎えが来た。帰らなくては」

 紳士はやれやれとこぼしながら、スケッチブックを閉じてベンチから立ち上がった。そして大股で歩み寄るロングコートの男性に、「わざわざおまえが来なくてもよかったのに」と言った。

 ロングコートの男性は、無言でベンチのわきに立ち、菜生を見下ろした。菜生がとまどいながら「こんにちは」と挨拶すると、かすかに笑みを浮かべて「こんにちは」と言った。笑っているのに、ちっとも笑っているようには見えない。


 何だろう、この威圧的な感じ。

「えーと、息子さん……ですか?」


 菜生は笑顔がひきつるのをごまかしながら、紳士に小声でたずねた。彼は困ったように笑い、「ま、そんなところだね」と答えた。

「今日は、久しぶりに会えて楽しかったですよ」

 紳士にほがらかな笑みを向けられて、菜生は「私もです」と言った。
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