三日月の下、君に恋した
 母がなぜあのとき喜ばなかったのか、ようやくわかった。


 自分が描いた絵も、青緑一色だった。


 感覚がふいに遠ざかる。細胞が凍りついたみたいに、その場から動けなくなった。

 体の中に眠る自分の知らない存在が、今になって急に目の前に現れたことに、打ちのめされていた。


 知らなかったのは自分だけで、過去も未来も動かせないほど強い存在に、ずっと前から──生まれたときから支配されていたのだ。


 もうこれ以上、知らないふりはできない。


 千鳥という名の画家のことを調べてくれたのは、早瀬の会社の共同経営者だった黒岩だ。

「いつか君が聞きにくるだろうと、早瀬は予感していたよ」


 そして、消息不明で今や完全に日本画界から消え去った千鳥という画家が、国内有数の文具メーカーであるハトリ株式会社の現社長、羽鳥克彦のかつての雅号だと教えてくれた。

「彼は画家だったことを公言していない。業界でも、彼の過去について語ることはタブー視されていて、触れないことが暗黙の了解になっているんだ。だから、本人はもちろんだが周囲の人間からその事実を聞き出すのも、相当やっかいだと思うけどね」

 黒岩はそれだけ言って、なぜ航がそんなことを知りたがるのか、羽鳥克彦とどういう関係があるのかは、いっさい尋ねなかった。

 黒岩は今、引退して会社を航に譲り、四国の山奥でおだやかな隠居生活を送っている。航の会社の関係者で、航がハトリにいることを知っている唯一の人物だった。
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