弟矢 ―四神剣伝説―

三、心に眠る鬼

里で起こった事件も、弓月の身に危険が迫っていることも知らず。乙矢は来た道ではなく、高円の里を東に折れ、そのまま爾志家の領地に戻ろうとしていた。

そこで、一矢が決着をつけるまで身を潜める。

全てが終われば、そのまま領地も出奔して爾志の名も捨てよう。そうなれば、もう追われることもない。蚩尤軍が付けた偽りの罪状も撤回されるだろう。


しかし、何度振り払っても、弓月の姿が脳裏に焼きついて離れない。

所詮、兄嫁と決まった女性だ。

天道に背くわけにも、神剣に選ばれた勇者を敵に回すわけにもいかない。そう自らに言い聞かせた。


物心ついたときから、まず、諦めることが乙矢の人生だった。今更、一つや二つ忘れることが増えても大したことではない。


だが、そう考えるたび、弓月の姿が浮かび上がる。乙矢の胸の内は、堂々巡りを繰り返していた。



里を出て丸一日、間もなく佐用に入ろうかといった辺りの山中だった。

かすかに滝音が聞こえる。道中の最も険しい辺りなので、切り立った斜面を下に滝壷がありそうだ。誤って落ちれば命はない。


乙矢は山道から少し山中に足を踏み入れた。

恐る恐る、木々の隙間を縫って流れる小川のせせらぎに近づき、顔と身体を洗う。

周囲の朝靄はまだ、充分に晴れてはいない。勝手のわからぬ山中で、しかも、身を守る小刀一本持たぬ状況では用心に越したことはないだろう。

乙矢は一つ一つの動作をなるべくゆっくりにした。それでも、脱いだ片袖を戻そうとした時、


「痛っつぅ……」


思わず顔をしかめる。


< 220 / 484 >

この作品をシェア

pagetop