弟矢 ―四神剣伝説―
「正三?」


自分の声に弓月は目を覚ました。どうやら、浅い眠りについていたらしい。耳に正三の声が残っている。

弓月はそっと起き上がり、凪らを起こさぬように廊下に出た。


細く、頼りない月の光が宿の中庭に差し込んでいた。風に雲が流されたらしい。夏の夜風に運ばれた湯治場独特の硫黄の匂いが、弓月の鼻孔をくすぐる。

低い塀の向こうを見つめ、弓月はもう一度その名を呼んだ。


「正三……」


――それが、二度と返事の帰らぬ、問い掛けであるなど思うはずもない。


細い月が雲に隠れた直後、塀の向こう側に蠢く影を見つけた。

弓月の脳裏に先刻の夢が思い出される。


(ひょっとすれば乙矢たちが追いついたのかも知れない。あれは正夢だったのだ)


淡い期待に弓月の心は急かされ、なんと裸足のまま庭を横切る。


塀の外は急斜面の土手になっており、宿のすぐ横を川が流れていた。黒い人影はすぐ近くに見えたが、どうやら川の向こう岸らしい。

川は夏で水が干上がっているのか、三尺あまりの幅しかなかった。その気になれば、女の弓月にも難なく飛び越えられる。土手の草むらのほうが広いくらいだ。


その時、雲が切れ、隙間から月の光が射し込む。浮かび上がった横顔は一矢だった。


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