弟矢 ―四神剣伝説―
一刻も経たず、弓月らは宿を後にした。

腹わたが煮え繰り返る思いとは、このことだろう。
 

弓月は一矢のものだった。爾志家宗主の座も、『白虎』も、勇者の血も全て、一矢ひとりのものとなるはずだったのだ。その独占は、わずか四半刻で霧散した。乙矢がこの世に生まれ出たばかりに。


ちょうど昨晩、弓月が人影を見つけた同じ場所に、一矢は立っていた。

低い塀は、この寂れた集落が、いかに平和であるかを物語っている。訪れる湯治客もほとんどおらぬのだろう。隠す必要も、覗く者もいない、と言うことだ。
 

一矢は、長刀の柄に手を掛け、そのままスッと引き抜いた。


全身の総毛立つ感覚に身震いする。

その刀身は赤く艶めいていた。何十、何百と人の血を吸っても足りぬと、鬼が血を欲している。お前が勇者だ、と神剣の鬼が告げるのだ。そう、乙矢さえ死ねば、お前が唯一の勇者である、と。


その時、宿の女中が布団を片付けにやって来た。


「あれ? お客さんは一緒に行かれんかったんですか?」


廊下に佇む一矢に驚き、女中は立ち止まる。すぐに、その手に抜き身の真剣があることに気付き、危険を察知したのか取って返そうとした。

しかし、女中の背中を見た瞬間、一矢は一気に間合いを詰める。刃先は女中の左腰から右肩へ――逆袈裟に斬り上げた。


女中は一瞬で事切れる。その背中から噴き出した血は、一矢の唇まで飛び散り……それを舐める姿は紛れもない鬼であった。


その『紅い鬼』を見つめる影がひとつ――。


中空からは、有明の月が静かに見下ろしていた。


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