美味しい時間

美和先輩が帰ると他の同僚たちも、一人また一人と帰って行った。
フロア全体では、まだ数人残っているけど、この部署で残っているのは私と
課長だけになってしまう。
二人きりの状況で仕事に集中できなくなっていると、課長からの視線を感じた。
ゆっくり顔を上げると、久しぶりに目線が交わった。課長の悲しげな視線に、
胸がズキンと痛む。今すぐにでも抱きついてしまいそうな衝撃に駆られるのを
必死に抑え、目線を外そうとしても、自分からは外すことが出来なかった。
すると、課長の口が僅かに動く。

「百花……」

聞き取れないほどの小さな声だったにも関わらず、私の心にはその声がはっき
りと聞こえた。抑え込んでいた気持ちと涙が溢れそうになる。その先の言葉を
待っていると、二人の間に割って入る倉橋さんの声が響いた。

「慶太郎さんっ。お待たせしました。帰りましょ」

一瞬にして胸を切り裂かれたように、大きな痛みが身体中を駆け抜ける。
左手で心臓のあたりをギュッと掴む。倉橋さんが課長の肩に触れると、その
光景を見ていられなくなり、固く目を瞑った。

「まだ仕事が片付いていない。先に帰ってもらってかまわない」

「そんな仕事、藤野さんに任せればいいじゃないの。ねっ、藤野さん」

「えっ?」

いきなり自分に振られて、閉じていた目を慌てて開く。

この人は、また勝手なことを……。

有無を言わせないその言い方に、少し腹がたつ。しかし、そう思っていても、
やっぱり口に出せるわけもなく……。
それに、ずっとここにいられるよりはマシだと思い、目を合わせることなく
返事をした。



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