美味しい時間
「いいかげんにしろ」
顔を見なくても、声を聞いただけで誰だか分かる。課長だ。
すぐにでも振り返って抱きつきたい衝動を必死に抑え、その場にしゃがみ込ん
だ。
「まだ叩き足りないんだからっ。 この手、離しなさいよっ!!」
「もう藤野に手を上げないと言うまでは離さない」
その言い方は物静かだったが、裏には怒りが込められているような感じだった。
それを倉橋さんも感じ取ったのか、大きく腕を振るって課長の手を払うと、私
から少しだけ距離をとった。
「二人して私のことを騙して、さぞ楽しかったことでしょうね」
まだ怒りは治まらないのか、ヒールをコツコツと鳴らし始めた。
(二人して騙す? 何を?)
倉橋さんの言った言葉の意味がさっぱり分からない。何で、昨日お見合いをし
て、これから課長と幸せになろうとしている倉橋さんがそんな事を言うんだろう。
「藤野さんっ。いつまで黙ってるのっ!!」
急に自分の名前を呼ばれて、身体がビクッと竦む。それでも顔を上げられずに
いると、また倉橋さんが私に近づこうと一歩足を前に動かした。