美味しい時間

駐車場から会社までの短い距離とはいえ、課長は美和先輩と話をしながらも、腕
は私の肩を抱いたまま……。
どこで課長のファンが見てるか分からないこの状況が、気が気じゃない。
ひとり身体を緊張させていると、フッと肩が軽くなる。

「専務、おはようございます。昨日はご迷惑をお掛けして、すみません」

課長の声に気づき前を見ると、重役用の社用車から出てこちらに向かってくる
専務の姿が目に入る。横では課長が大きく頭を下げていた。
さ、さすがは課長。行動が素早いっ!!
私も慌てて頭を下げる。

「おはよう。東堂くん、頭を上げてくれ。君もだ」

専務の温和な声が聞こえて、二人一緒に顔を上げた。

「迷惑を掛けたのはこちらの方だ。申し訳なかったね」

「いえ……」

何ともしおらしい態度に、ついさっき悪魔のような微笑みをした人と同じ人なの
かと疑うほどだ。
唖然とした顔で課長を見ていたら、専務が私に向き直った。

「もう頬は大丈夫かね?」

頬? あぁ、倉橋さんに打たれたんだ。反射的に手のひらを頬に当てる。打たれ
た時の強い衝撃を思い出し、眉を顰めた。意識すると痛みもまだ残っているよう
な気がする。でもここで、本当のことを言う必要もない。

「だ、大丈夫です。ご心配を、おかけしました」

もう一度、深々と頭を下げると、優しく肩を叩かれる。
ゆっくり顔を上げると、専務がまるで父親が娘に向けるような笑顔で見ていた。
その意味が分からずキョトンとしていると、ワハハと笑い出す。

「東堂くん、君は本当に良い子を見つけたな」

そう言って、今度は課長の肩を力強く二度叩き、会社へと入っていった。
専務と秘書がエレベーターに乗り込み姿が見えなくなると、課長が叩かれた肩を
さすりだした。




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