佳き日に
え、それだけ、と琥珀は少し拍子抜けした。
来週また来いって、あ、その時に何をするか指示されるのかな、と思った。
男は急に思い出したかのように足を止め、琥珀の方に振り返った。
そしてこう言った。
「雪、だ。」
「え?」
その言葉に琥珀は反射的に上を向いた。
しかし、空は重苦しい曇天で、雪など降る気配もない。
そして今は八月じゃないか、とも冷静になって思った。
騙された、のか?
「降ってないじゃないですか。」
「違う、名前だ。」
「あなたの?雪って言うんですか?」
「そうだ。」
それだけ言うと黒い男、もとい雪は路地から立ち去っていった。
名前の雪を気象現象の雪と勘違いしてバカみたいに上を見上げたことが今更ながら恥ずかしくなってきた。
そして琥珀は自分の足が動けるようになったことに気づく。
雪がいなくなり、自分がまだ生きている、と感じ、どっと安心感が押し寄せる。
視界の端に死体が映り、忘れかけていた恐怖感と吐き気が戻ってきた。
よろよろと力なくしゃがみ込む。
自分の胸に手を当てる。
大丈夫、私は生きている、と琥珀は何度も呟く。
繰り返し繰り返し。
琥珀がようやく立ち上がれるようになったのは、日がすっかり暮れた頃だった。