佳き日に
「チェロ、ですか?」
閏が差し出したのは、今いる場所から徒歩で三分もかからない程度の市民ホールで行われるコンサートのチケットだ。
「自分用に買ったのですが、ついさっき仕事の用事が入ってしまったので。このコンサートに出る人、僕の友人なんです。捨てるのにも忍びなくて。」
嘘八百。
閏の口からはスラスラと言葉が出てくる。
品が良くて程よくオシャレで、こういったコンサートに興味をもちそうな女性を選んだつもりだった。
だが、相手が乗るか乗らないかは分からない。
一人きりで30代の女性がコンサートに行きたがるのかが不明なのだ。
「いいんですか?」
だが、意外なことに女性は乗り気のようだった。
気づきにくいが、目が少し嬉しそうに細められている。
「私、コンサートとか一人でじっくり聞いてみたかったんですよ。」
「そうだったんですか。それはよかった。」
ツイてますね、と閏は心の中で思う。
まさかこんなに事が上手く運ぶとは。
雪からさっき指示されただけで、かなり大雑把な作戦だったから上手くいくか不安だったのだ。
「ありがとうございます。」
「いえ、こちらこそ。チケットが無駄にならなくてよかったです。」
その後二言三言似たような会話をして女性は市民ホールへ歩いて行った。
開演まであと二十分くらいなので、余裕をもって行ったのだろう。
小さくなっていく女性の後ろ姿を見ながら閏は周りを見回す。
相変わらず人気はない。
あの女性はあと二時間はここへは戻ってこないだろう。
閏は女性が車から降りたときの状況を思いだしながら雪に電話をかける。
1コールもしないうちに雪は出た。
「茶髪でピンク色のイヤリング。淡いグレーのスーツの女性。上着の左ポケットに、桜のキーホルダーのついたのが鍵です。」
『分かった。』
電話が終わると閏はゆっくりと息を吐く。
ここで自分の仕事は一段落だ。
あとは雪があの女性にぶつかるフリでもして車の鍵を取ってきてくれるだろう。
ふっと閏は顔を上げる。
秋晴れというのだろうか。
小さな雲が空で隊列をつくっていた。