フライングムーン
第九章
次の日“これ弾けるの?”と彼は聞いてきた。
彼が指差す方を見ると真っ黒なピアノだった。
“弾けるよ”と私は立ち上がってピアノの蓋を開けた。
“こんなに近くで本物のピアノを見たのは初めてだよ”と彼は白と黒の鍵盤に目を輝かせた。
私はビックリした。
“家にピアノ無いの?”と聞くと彼は“無いよ”と答えた。
物心がついた時からここにはピアノがあった。
だから私はどの家にもピアノはあるものだと思っていた。
彼は“全ての家にピアノがあるわけじゃないよ”と教えてくれた。
私は初めて知った外の世界を想像する事が出来なくて、少し悩んだ。
そんな私に彼は“何か弾いて”と言った。
私は簡単な曲を弾いた。
彼は“上手だね”と褒めてくれた。
私は初めて褒められてなんだか恥ずかしくなった。
“もっと弾いて”と彼は私が座っているピアノのイスの隅に座った。
私は少し得意げになってもう一曲弾いた。
“キレイな曲だね、なんて言うの?”と彼は聞いてきた。
“今、適当に弾いてるだけだから名前は無いよ”と私は答えた。
すると彼は今まで見た事のない顔をして“君は凄いね、曲を作れるんだね”と興奮していた。
私はまた恥ずかしくなった。
自分の曲を誰かに聴いてもらうのは初めてだった。
“君はもっとたくさん曲を作って、たくさんの人に聴いてもらうべきだよ”と彼は言った。
私の曲を聴いてもらう?
そんな事は一度も考えた事がなかった。
でもすぐに気付いた。
私はここから出る事が出来ない。
それに彼以外の人をここに入れるつもりはない。
私は明るい表情をした彼に“それは無理だよ”と伝えた。
でも彼は表情を変えなかった。
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