艶めきの標本箱







「ちゃんと身体、拭かないと。」







私は唇にシーツの感触を残したまま、彼に声をかける。
ああ、と適当な返事。
そして沈んでいたベッドから彼の重さが消えて、気配がソファーに移ったのを感じた。
煙草の薫りが、ゆっくりと流れてくる。
人工的に続く波音が、眠りへと手招きしている妖かしの女みたいだ。







「そろそろ時間、大丈夫かい?」








私は定まらない意識で頭を起こし、サイドテーブルの上に置いた携帯を手にして時間を確認した。







「そうね…もう、行かなきゃ。」







熱めのシャワーで、なかば強引に覚めきらぬ意識を現実へと引き戻す。
洗面所の壁に張られた横に長い鏡が冷えて曇りがとれるまで、私はタオルで髪の滴をはらう。
化粧水で潤う肌に、ファンデーションを乗せて、眉尻をペンシルで描き眉頭の粉ををブラシでぼかした。
口紅のケースを開けようとした時、彼が私の名前を呼んだ。
ちゃん付けの呼び方が、私が彼よりずっと若いことを表していた。
紅筆の先をしならせて、色を取り唇へと塗り付ける。
ちょっとごわつくティッシュペーパーを折り畳んで両唇に挟んでから、彼の元へと素足で歩く。
深みのある濃茶色の床板がひんやりと心地よい。



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