艶めきの標本箱
どれくらいこうしていたのか。
陽の光は弱まり夕暮れ間近だった。
彼がスケッチブックを置いた。
私は瞳だけで彼の動きを追う。
彼が私に近づいてくる。
私は彼を見つめる。
遠くの樹でいつしかヒグラシが鳴き始めた。
動けないままの私の傍らに跪き両手で太股を包む彼の手は、乾いていたけど優しかった。
私はその手を愛しいと思った。
彼が身を屈めて、私の醜い傷痕にそっとくちづけした。
この唇の感覚を記憶に刻みたいと、瞳を閉じて私は願った。
強く、強く。
もう、これだけで十分。
…ありがとう。
私は目を開け、彼の右手を取り上げて頬に寄せてみる。
窓の下で車が停まった。
あの人が迎えにきたのだろう。
頬から彼の手を離し、手首の内側の痕跡を確める。
彼が一生背負うもの。
そこに、私はそっとキスをする。
チャイムが鳴った。
カーテンが大きく揺れて、彼のスケッチブックが風に踊る音が聞こえてきた。
私はもう一度、目を閉じてみた。
ちらりと海の匂いがしたような気がした。