眠り姫の唇


給湯室は狭くて、しかも扉がない。


休憩室はまた別にあるので、ほとんど食器を洗うためだけのスペースだ。


薄暗いのだけがわずかな救いだった。


涙を流しながらそのスペースの前を前川が走り抜ける。



「(前川先輩…泣いてた。)」


いったいどんな会話がされていたのであろうか。


いや、いい。


想像もしたくない。


もうあの場面だけで充分だった。


その後すぐに、バタンと扉が閉じられる音がして、慌てた表情の岩城が出て来た。



神様はなんて意地悪なんだろう。



こんな惨めな姿、一番この人に見られたくなかったのに。



何故か薄暗い給湯室の方にタイミング悪く視線を走らせた岩城は、ばっちり泣きそうな顔をした瑠香と目があった。


瑠香はこんな時にまで強がる自分の声に内心笑った。


「…チャンスは今しかないですよ。ちゃんと、前川先輩おっかけてあげて下さいね。」


それだけ言うと、瑠香はいたたまれなくなってその場を猛ダッシュで去っていった。


かろうじてのばされた岩城の腕は、ほんのちょっとの差で、空を切った……。








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