エスメラルダ


◆◆◆

 ファトナムール陥落から二週間。
 エスメラルダは手紙を穴が開くほど読み返した。
『お前の許に帰る』
 ただそれだけを書いた手紙にエスメラルダは何度も口づけた。
 わたくしの許に、帰っていらっしゃる。
 涙が溢れ出た。
 カスラをこっそりつけてあった。
 万が一の事がないように。
 それでもカスラの一族が、
「王はかすり傷一つおっておられません」
 という言葉がどれほど嬉しかったか。
 しかし、今、スゥ大陸中を覆うファトナムールの『革命』は凄まじいものがあるらしい。金鉱の秘密を知ってしまったが故に帰される事なく閉じ込められていた者達も、無事に救出されたという。
 レイリエが何かを謀らなくとも、フランヴェルジュが軍隊をもって制圧しようとしなくとも、ファトナムールの瓦解はそう遠くない出来事であったのであろう。
 今、エスメラルダはアユリカナと大臣たちと共に忙しく働いていた。今日も、忙しく立ち働いた後、『真白塔』に与えられた自室に戻ってきてようやく手紙を見ることが出来たのである。
 人々の前から姿を消すために『真白塔』にこもった王太后や仮の王妃であるエスメラルダまでが忙しく働いていたのは、食料や医薬品をファトナムールに送るためであった。
 質実剛健といわれてきたファトナムール。
 その実が単に贅沢を食む余裕がなかっただけだとはおかしなことにスゥ大陸の誰も知らなかった。民も矜持が高かったのだ。己らの貧しさを彼らは必死で隠し、泰然としていた。
 しかし、早馬でフランヴェルジュから届けられた手紙───エスメラルダ個人にあてたものではなく公式の手紙である───には赤子が生き延びる事は難しく、五つや六つの少女が買われて行く実情が書かれてあった。
 ファトナムールはいまや占領国であり、フランヴェルジュは自治権を残さずその領土を併呑した。
 自治が出来るような状態ではなかったのである。それほどまでに、ファトナムールは貧しかった。
 ファトナムールがメルローアの一部である以上、ファトナムールの民人はフランヴェルジュの民でもあった。
 それ故に彼はもうファトナムールの民を飢えさせるつもりはなかったし、医療も充実させるつもりだった。実際従軍医師の五分の四をフランヴェルジュはファトナムールにおいてきた。
 やがて経済を立て直し、食糧事情を改善して人心に余裕が出来てからフランヴェルジュはファトナムールに自治権を返すのだがそれはこの物語より五十年も先の、遠い未来の話である。
 ハイダーシュの遺体はファトナムールの土に還したとの事だった。
「もうすぐ、きっともうすぐ」
 封筒に、カリナグレイの隣の領地、ネヴァイアンの名前が書いてあった。
 明日には、戻っていらっしゃるわ。
 扉にもたれていた彼女はしかし、はっと身を離した。
 足音が扉の前で止まったのだ。
 こんこんと扉が叩かれる。
「はい?」
「わたくしです。入っても宜しくて?」
 アユリカナの声に、エスメラルダは手紙をポケットの中に突っ込むと慌てて扉を開けた。
「どうなさいましたか? アユリカナ様」
 にっこりと、アユリカナは笑った。
 それは久々の、作り笑顔でない本物の笑顔だった。
 ああ、きっとアユリカナ様もフランヴェルジュ様のご無事のご帰還が迫っていて、嬉しくていらっしゃるのだわ。
 エスメラルダは単純に解釈した。
 アユリカナの笑みは、実は企みごとを隠す、そんな笑みだったのだけれども。
「明日は午後十二時までに、わがメルローアの兵は還ってくるそうよ。ええ、あの腕白坊やもね。今早馬が着ました。ええ、第一陣。一度に兵を全て切り上げるにはファトナムールの内情は混乱しきっているみたい」
 こくんと頷くエスメラルダにアユリカナは言った。
「明日はルジュアインのことはわたくしが見ていますから、貴女は大門でフランヴェルジュをお待ちなさい。それから、白のドレスで行くのですよ。色がついていなければレーシアーナも怒りはしないわ。戦勝の祝賀に、黒い烏みたいなドレスは見苦しくってよ。良くって? 黒は駄目ですからね」
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