エスメラルダ
 そのエスメラルダはすぐに扉を閉めると一瞬ふらついて、だけれども、すぐ背筋を伸ばして父を探し始めた。
 紫色の唇で父を呼ぶ。
「父様! 父様!! どちらにいらっしゃるのですか!?」
 ローグは娘の声に振り向くと、ほっとした顔で駆け寄ってきた娘の襟首を掴んだ。
「馬鹿野朗! 何処の淑女が酒場になんか入ってくるって言うんだよ!!」
「ご……ご免なさい! だけど、母様が……!!」
「リンカになんかあったのか!?」
 父親は急に娘の襟首から手を放した。
「先にお医者様のところに寄りました! 血を流してらっしゃるの!」
「解った。エスメラルダ、帰るぞ! 皆」
 『血を流す』で思い当たる事があったローグ家当主は『金魚亭』の皆に笑って見せた。
「娘は大袈裟なんだ。今日は俺の驕りだから遠慮なく飲んでくれ! 中座の詫びだ!」
 案ずる声と小さな歓声が入り混じる中、父と娘は家に急いだ。
 馬車が通れないくらいの雪。
 二人はここまで雪を恨んだ事はない。
 エスメラルダの母、リンカは妊娠していた。だが、出産まで幾らかまだ間があった筈なのだ。
 何があったのか、歯の根も合わぬ程震えながらエスメラルダは説明した。
 いつもどおり暖炉の前のゆり椅子で編み物をしていた母は突然立ち上がった。足元にはピンク色の水が滴っていた。と、思うと鮮血!そして、ぐらりと身体が傾いだかと思うとそのまま倒れたのだ。
 エスメラルダは必死で、まだ意識のあった母を立ち上がらせると。自分が座っていた長椅子に横たえた。
 そのまま外套一枚羽織って医者を呼びに向かい、そして『金魚亭』に急いだのである。
 だが、遅かった。
 雪さえ降っていなければ、臨終には間に合ったかもしれぬ。
 母は、二人を待たずに黄泉路をたどった。
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