エスメラルダ
 『真白塔』の一階に続く階段を、二人は共に昇った。勿論、その手は繋がれたままである。固く固く。
 エスメラルダの右手は燭台を持ち、左手はフランヴェルジュと繋がれている。どうして握っているのか解らなかったけれども、逃げ出したい気持ちからは解放された。そう、エスメラルダは逃げ出したかったのだ。
 アユリカナの命でなければエスメラルダは逃げ出していただろう。
 十六歳の少女が霊廟のそのまた地下にある牢になど近づきたいなどと思うものか。
 だが、アユリカナの命があり、そして親友のレーシアーナの涙があった。
 それでどうして逃げだせよう? 逃げる事など不可能だ。人間であるなら。
 そして。
 エスメラルダ自身が気付いていない理由がもう一つあった。
 フランヴェルジュと共にいたかったのだ。
 痛みを完全に共有できなくとも、その一割でも良い、分かち合えたら。
 そう、思っていた事にエスメラルダは気付かない。
 フランヴェルジュとブランシール。
 仲の良い一対の兄弟。
 ブランシールの面倒を率先して面倒見ていたのはフランヴェルジュだったという。弟を可愛がる事にかけては誰にも負けなかった。妹のエランカがずるいと言った程である。
 そして弟は兄の行く場所なら何処へでもついていった。どんな場所であれ、二人は一緒だった。二人なら何も怖くなかった。
 フランヴェルジュは物心ついて以来当たり前のように隣に居た自らの半身といっても良い男を自ら牢に……豪奢ではあるが孤独な牢に……閉じ込めたのだ。
 その痛みは如何ばかりであろう?
 エスメラルダはその事を、意識しなくとも本能的に知っていた。
 長い階段の果てに隠し扉がある。そこは『真白塔』のアユリカナの寝室に繋がっていた。
 開いた片手で扉を開け、フランヴェルジュは握り締めたままだった愛しい少女の手を引っ張る。
 扉の向こうは蝋燭の数を減らして暗くした部屋であった。
「母上の寝室だ」
 フランヴェルジュが低く囁く。
 彼だとて困惑しているのだろう。子供が親の寝室に入っても構わないのは十歳までとされている。
 フランヴェルジュはきちんとそれを守ってきた。だから母親の寝室に居るという事実が照れ臭いのだ。
「もう、明かりは良い。職代をサイドテーブルにおいて吹き消してしまえ。母上は応接室にいらっしゃるのだったな?」
 確認されたのでエスメラルダは頷く。そして正直重かった燭台の蝋燭を消した。
 それから燭台をテーブルに置く。紫檀のテーブルには螺鈿の箱が置いてあった。
 趣味よく統一された部屋である。美しく、しかし華美に走らず。アユリカナという人間の性格が良く出た部屋であった。
「母上を余り待たせたくはない。それにレーシアーナは泣いているだろう? お前が何よりの励みになる」
 急くフランヴェルジュに、部屋をあれこれ観察していたエスメラルダは慌てて従う。
 母様は蒔絵の化粧箱が欲しいと父様にお強請りしていらしたわね。
 そんな事を考えながら、エスメラルダははっとする。いつの間にフランヴェルジュ様の手を離してしまったのであろう?
 エスメラルダは必死でフランヴェルジュの背中を追い、立ち止まってエスメラルダの方を見やったフランヴェルジュにぶつかった。
 エスメラルダは腕の中に居た。
 逞しい胸だった。
 だけれどもお互いどうして良いか解らず、体をくっつけたまま止まってしまった。
 フランヴェルジュとエスメラルダがそれぞれの両腕の有効な使い道に気付いた時、二人は同時に動いていた。
 おりこうさんの本能は知っている。
 エスメラルダは背伸びしてフランヴェルジュの首筋に手を回した。
 フランヴェルジュは折れそうなほど細いエスメラルダの腰を抱いていた。
 やがて、エスメラルダは目を瞑る。唇をすぼめるのはこれまたおりこうさんの本能故であろう。
 影が落ちてきた。
 唇が重なる。
 触れるだけの、小鳥が餌を啄ばむようなキス。だけれども、段々と濃度と激しさを増してくる。エスメラルダの喘ぎ声をキスで隠した。そして、エスメラルダは言ったのだ。
「あなたが、好き」
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