エスメラルダ
 頭が付いていかないのだ。自分の親友が正妃になるなど。つまりは自分の義姉になるなど。
 だけれども今口にしなくてはならないのは真実だけ。求められているのはそれだけ。
「エスメラルダはダムバーグの姓は名乗らぬとはっきり申しました。ダムバーグ夫人にも、そのように」
「何と……」
 ブランシールは思わず額に手をやった。
 その手が小刻みに震える。水煙草の後遺症で治るものではないのだということだ。
「後は母上にお任せするしかないか」
 呟いたブランシールの手を、レーシアーナは己の手で包み込んだ。震える、骨ばった手。
 この手で守ろうとしているのは何なのだろうとレーシアーナは考える。自分であったら良いのにと思う。だが、ブランシールは自分を見ていない。
 ブランンシールはレーシアーナの背後を見るように遠い目つきをしている。
 エスメラルダを、お守り遊ばしたいと、そう仰せられるのですか? ブランシール様。
 だけれども。
 何かが違うと訴える。
 何かが違うのだ。
 その時、ぽんと赤子が腹を蹴った。
「ブランシール様! 赤ちゃんが!!」
 レーシアーナは叫ぶと握っていた手を再び己が下腹部に押し当てた。
 ぽんと、衝撃。
 ああ、赤ちゃん。
 レーシアーナは未だ生まれざる我が子に心から感謝した。
 最高のタイミングよ。赤ちゃん。
「……生きているんだね。僕とお前の子が」
 柔和な表情になってブランシールはその下腹部を撫でた。レーシアーナの皮膚。最後にレーシアーナの皮膚に触れたのは何時だったであろう?
 あの悪魔が塔の住人になる前だ。
 それでも、此処に確かに新しい命が育まれている。
 不意に、視界が曇った。
 熱いものがこみ上げてくる。
「ブランシール様!?」
「……女は命を紡ぐ……」
 ぽろぽろと、ブランンシールは泣いた。
 エスメラルダの事は母に任せよう。兄も愚鈍ではないのだから自分一人でも何とでもなる筈だ。
 もう、いいでしょう? 僕は……僕は……。
「レーシアーナ」
 ブランシールは涙を拭おうとする少女の手を捕まえて言った。
「お前を愛している」
 偽りのない言葉にレーシアーナの全身が歓喜に震えた。
 ブランシールの瞳は確かにレーシアーナだけを見ていた。
「嬉しい」
 レーシアーナの瞳から涙の粒が転がり落ちる。涙にくれていてもなお美しい婚約者を、ブランシールは壊れ物でも扱うかのごとくそっと抱きしめる。
 温かい。
 その温もりだけが確かなものだった。
 十九年間生きてきて、ブランシールが手に入れた唯一のものだった。
 兄には玉座も王冠もある。そしてエスメラルダも。
 ブランシールにはレーシアーナしかいない。

 あの方は僕の気持ちなどお考えになった事もないであろう。

 だけれども、自ら告げる事は出来なかった。
 拒絶されたら生きてはいけない。
 それ位なら一生心に秘めたままで良い。
 そう思う。
 以前は伝えたくて仕方がなかった。
 その衝動が収まったのはレーシアーナが今、此処にいるからだとブランシールは思う。
 兄上。
 貴方はエスメラルダを捕まえるといい。
 僕は貴方を裏切らない。
 貴方が望むままに生きよう、仕えよう。
 それでも、此処に在る命二つ、レーシアーナと未だ生まれざる我が子を愛する事は許して頂けますよね? 貴方以外に心を割く事を。
 この二つの命の為に、己が命を差し出しても貴方は許してくださいますか?
 ……イトシイ。
 そう思いながらレーシアーナの体を抱きしめていたら少女はつっと上を向いた。
 唇が赤い。
 その唇を吸って欲しいとばかりにレーシアーナは目を閉じる。
 甘い口づけ。
 二人は一生一緒なのだ。
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