渇望の鬼、欺く狐
 引き寄せられた体が強く抱きしめられて。

 体に感じた強い圧迫を覚えた瞬間。

 確かに私は、幸せを感じたのだ。



『本当に……、もう逃がす事なんて出来ないよ……?』



 楓の胸の中で、何度も何度も頷いた。

 頬を伝う涙は、すでに悲しみや辛さ故の物ではなくなっていた。

 体の圧迫が僅かに解かれる。

 頬に添えられた手が、私の髪を梳かして。



『愛してる』



 これまで見た中で、一番美しく柔らかな表情に。

 耳に届く言葉に、重なった唇に。

 感じていた幸せが、溢れていく感覚を覚えていた。



 ずっと孤独だった、と楓は言った。

 鬼である自分を、受け入れてくれる存在など居なかった、と。

 生まれた時から常に孤独で、それが当然とすら思っていた、と。

 たった一人、彷徨った末に社を見つけて、住処にして。

 静かに外の音を聴く事でしか、時間の過ごし方がわからなかった、と。

 故に私の存在は、楓の中で異質となり。

 特別となった、と。


 私の幸せを願いながら、突き放す事が出来なかった事も、楓は教えてくれた。

 いつか私の方から去ってくれる事を願いながら。

 その瞬間が来る事に怯えて。

 時ばかり刻んでしまった、と。

 困ったように口にする楓が、何故かこの時可愛く思えて。

 自分から、楓の体に抱き着いた。



『あのね、私も愛してる。だから私の方から居なくなるなんて、絶対ないよ』



 きっとこの先も、揺らぐ事のないであろう気持ちを伝えれば、自分の背中には楓の手が回されて。

 幸せだけに包まれた、この瞬間。

 私と楓は夫婦となった。
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