渇望の鬼、欺く狐
 楓と過ごす為、全てを捨てた。

 生まれ育った地も、友人も、家族ですらも。

 それでも構わなかった。

 楓との時間が、自分にとっての全てだった。



『――――』



 柔らかな声が、かつての名で私を呼ぶ。

 その声に反応しながら。



『もう、その名前も捨てる』



 私は慣れ親しんだ名前すらも、捨てる決心を抱いたのだ。



『うん?』


『全部新しくするの。そしたら最初から最後まで、全部楓との思い出だけになるから』



 耳を心地良く掠めていく、クスクスと笑う声。

 伸ばされた手が頭を撫でる感触も、抱き着く体の感触も。

 楓から与えられる物全てに、愛しさを感じて。



『突拍子もない事を言う子だね』


『……駄目?』



 他の誰かが混じった過去を全て捨てる代わりに、未来の全てを楓と刻んでいきたかった。
< 209 / 246 >

この作品をシェア

pagetop