渇望の鬼、欺く狐
『私はいいから。藍は、二人分の栄養を蓄えないといけないだろう?』



 そう言って、無理にでも食べさせようとする楓に、何度も緩む頬。

 最終的には渋々と言った感じで、食べ物を下げる姿も。

 私を後ろから抱きしめて、膨らむお腹に手を添える仕草も。

 大好きで愛おしくて。

 この絶対的な安穏が、崩れる事などありえないと。

 何故だか、そんな自信すら抱いていた。


 臨月を迎えて、訪れた陣痛。

 一晩中続いた陣痛に何度も飛びそうになった意識は、手を握り続けてくれていた強い感触と、私を励ます声により支えられていたと思う。

 静けさを伴う夜の空気に混じるように、自分の物とは思えぬ程の呻き声を張り巡らせて。

 やがて迎えた明け方の中。

 社内に差し込む、あまりにも高貴でいて、神々しさすら放つ旭を背景に。



『か、えで……』


『藍……、元気な男の子だ……』



 私たちの子供――旭は、大きな産声を上げたのだ。

 小さな体に、額には同じく小さな一本の角を携えて。

 どちらからともなく、名付けた名前だった。

 私の名も、楓の名も。

 それぞれを表す物から名付けていた事も、理由にあったのかもしれない。

 旭に照らされたこの子に、一番似合う名前だと、大きな達成感を抱きながらそんな事を思って。

 幸せだった。

 幸せで仕方無かったのだ。

 愛する存在と、その存在との子を、自分の手に抱ける事が。

 だから、なんて事は。

 きっと理由として、相応しくないのかもしれないけれど。

 幸せの均衡が崩れる瞬間など。

 私は考える事すら、してはいなかった。 
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