君の知らない空
ちょっと待って、
さっき『綾瀬』って言った?
もう一度聞いてみたいのに、桂一のすぐ傍には先輩が立ってて、聞けるような状況じゃない。
『綾瀬』とは桂一の会社の社長さんの名前だと、おおよそ分かってはいるけど桂一の口から聞きたい。その通りだと言ってほしい。
「大月、彼女送ってったら連絡してくれたらいいから。俺はもう少し、この辺り回って待ってるからさ」
「あ、はい……社長はどこに? 報告はどこに言ったらいいんですか?」
「いや、今日は綾瀬さんへの報告はいらないらしい。気楽に探そうか」
桂一の耳元でこっそり言ったらつもりだろうけど、私にはちゃんと聴こえてる。
やっぱり、『綾瀬』とは社長の名前なんだ。美香の兄の名前……どうして美香と姓が違うんだろう。
気持ちはありがたいけど、何のためにここまで来たのか先輩は分かってないようだ。私は桂一に会いに来たんじゃない。
それに、せっかく母を振り切ってここまで出掛けて来たのに、家まで送り返されたら困るじゃない。
「いえ、大丈夫です。私はひとりで帰ります、彼とはたまたま会っただけですから」
きっぱりと言うと、先輩は明らかにほっとした顔をしてる。いつも融通が利くわけじゃないんだな……どうしても今日は仕事優先らしい。
「でも橙子、足痛いんだろ?」
心配そうに顔を覗き込む桂一に、私は笑顔で返した。
「平気、ありがとう。駅に自転車停めてるし、いろいろと行きたい所もあるから。またね」
「ごめん、気をつけて帰りなよ」
私は桂一に手を振って、交差点を渡った。本来の目的ではないけど、カフェのクロワッサンを買いに行くために。