君にすべてを捧げよう
疲れ果てた女は、ある日、楽師の元を逃げ出した。
疲れ果てた己に優しくしてくれた、別の男を頼って行ったのだ。

けれど、それも上手く行かなくて、女の苦しみは増しただけだった。
苦しみ、悶える女に楽師の男は言う。

愚かな女。
お前は間違っていたけれど、自分はそれを許してあげよう。
傍に置いてあげよう。
自分の傍にいることを、許してあげよう。

男はどこまでも、どこまでも、傲慢だった。

女の心の歯車は、どこかが抜け落ちた。
あっさり崩れ、そしてそれは絶命の引き金となる。


『私は貴方を愛していたことすら認めたくない』


そう言い残して、女は、一人で死んだ。

女は、男が目の前にいるのに、叫び声をあげているのに、抱きしめているのに、
心は一人ぼっちで死んでしまった――



本を閉じ、深呼吸する。
苦しい。肺が潰されてしまった気分だ。

これを、蓮はどういう思いで書いたのだろう。



――女を失った男は、ようやく気付く。
女の言葉が全て真実だったことに。自分には才能などない。
ただの楽師で、それ以上でもそれ以下でもない。
人の心を揺さぶるのは己の力のみが成せるものではない。自分を媒体とする、音楽というもの自体が、神なる力を持っているのだ。

そんな当たり前のことを悟るのに、自分は女の命を使ってしまった。


なんと、愚かだったことだろう……。


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