主さまの気まぐれ-百鬼夜行の王-【短編集】※次作鋭意考案中※
帯に手がかかると、背筋をぞわぞわと悪寒が走り、首を竦めて丙の手を掴んだ若葉は、ぎゅうっと瞳を閉じてその先の行為を拒んだ。

まだ時間が足りないと思いながらも、丙も大家を継ぐ長男としての立場、そして夫婦になるための第一歩を歩くためには、必ず必要なことだ。

愛しているのだからなおさら、心も身体も欲しくなる。


「ゃ、ひのえちゃん…っ、待って…」


「待てない。若葉…俺と夫婦になれば、銀さんのことだってきっとすぐ忘れるから。もう待てない。若葉…目を閉じて…」


丙の為すがままに床に横たえさせられて覆い被さられた時――


銀の笑顔が鮮烈に頭に思い浮かんだ。


今覆い被さっている丙が銀だったらどんなによかったか…

丙の好意を踏みにじって夫婦になり、銀を忘れさせてくれるだろうと思って決意したはずなのに、どうして銀は頭から離れてくれないのだろうか?



「やだ、ひのえちゃん!………ぎんちゃん…っ!」


「!…若葉…」



口を突いて叫びを求めた相手は、求めてはならない男の名。

はっとした若葉が目を開けると、丙は呆然とした顔でゆっくりと若葉から身体を起こした。


…とても傷ついた顔をしていた。

このまま走り去って逃げて、入水自殺でもすればこれからもう誰も傷つけることはないし、これ以上傷つかないかもしれない。


いっそのこと、これからそうした方が――


「若葉…ごめん。無理強いした。自分だけ逸って…ごめん」


「違う…違うのひのえちゃん…私が悪くて…私が全部悪いの。ぎんちゃんのことはもう忘れなきゃいけないのに…私…」


“泣く”ということを知らない若葉が言葉を詰まらせて顔を歪めると、丙は昂った感情を封じ込めるために大きく息を吐き、恐る恐る両腕を広げた。


「待つ。待つから…若葉が俺に“抱かれたい”って思うまで待つから…だからぎゅってさせてほしい。…それも駄目か?」


「ううん…ぎゅってして。ぎんちゃんは私が大きくなってからぎゅってしてくれなくなったの。だから…ぎゅってして」


銀に求めていたことをしなければならない――

葛藤に苛まれながらも丙は若葉を抱きしめて、背中を撫でてやりながら、小さく笑った。


「でも母さんたちにばれたら立場が悪くなるだろうから、何か聞かれたら俺とは夫婦の契りをちゃんとしました、って言ってね。あと…床はひとつじゃないと怪しまれるからそれは…」


「うん、大丈夫。ひのえちゃん…一緒に寝よ」


…一緒に寝ていて平気ではいられないことを若葉は知らないだろうが、丙は横になった若葉の首元まで布団をかけてやりながら隣に寝転んだ。

真実の夫婦になれる日はいつなのだろうか。

銀なんか、居なくなればいいのに…と浅ましいことを考えながら、無理矢理瞳を閉じた。
< 151 / 593 >

この作品をシェア

pagetop