孤独の戦いと限界
エッセイ『・反応論

人間は反応を愛する生き物である。

人はみな、千変万化を遂げて成長し、それは止まる事がない。
時は止まる事を知らず、人間もまた同じで、絶えず喜怒哀楽を変化し続けているのである。

人が無限に変化するからこそ、己も反応を起こす。
自分が反応を起こすからこそ、何が好きか嫌いか、自分を知る手がかりとなる。

どんな事に反応を覚えるか、まずは自分が反応する事に、素直になることである。

自分に反応があるからこそ、好き嫌いを覚える。
自分の反応とは、好き嫌いを知る原点である。

自分が相手を見て、可愛いカッコいいと思うのも、全て己の反応からくるものだが、誰かが美貌に影響を受け、感激しても、自分も同じ様に思えるか、と言えば否だ。

反応は、皆が全く同じ様にはできてはいない。
人間全てにオリジナルの感性が備わっている。

反応を共感できる部分もあるだろうが、最終的には自分に反応できる事が真実になるだろう。

真実が明確になれば、正確に物事を追求できるし、迷いごとの発見も素早く対処できる。

基本的に、自分に刺激を受けて反応を覚えることは従順である。
これに逆らう事は、相当な精神力を要する。

己の反応が真実を指し示す。それを逆らう事は、自分の真実を逆らう事である。

古来より真実を知る者は孤立する、とある。
孤立する原因は、全ての人間にオリジナルの反応があり、オリジナルの真実がある。

それぞれのオリジナルの真実がぶつかり合う現象、それが真実の孤立の原因かも知れない。

国ごとに出来上がった歴史、習慣、法律、モラル、マナーが反応を許す基本原則が決められ、基本から外れる反応は拒絶される。

真実を世間から認められるなら、その人間は伸び伸びと悠々自適な生き方ができる。

真実を世間から拒否されるなら、自虐的な思想を抱えて、真実を抑え抑え生きていく。

この両者の違いは、反応というオリジナルの違いである。

また、反応による喜怒哀楽は、本来、体を使って表現を行う。
言うならば、反応とは常に体で表現するものだ。

喜べばはしゃぎ、怒れば壁を叩き、哀しめば涙を流し、楽しければ笑顔になる。

反応は体と連動して行われるものだが、社会的マナーや、人格の隠匿のせいか、体を使った表現は極力はしない。

ただし、喜怒哀楽の感情が頂点にくれば、体も動いてしまう。
例えば、怒りの頂点に達せば、怒鳴りちらし、哀しみに堪えきれなければ、泣きわめくだろう。

ドッキリ番組で例えるなら、いきなりの物体に、反応をして感情が頂点にまで登り、体で表現しているのがわかるだろう。

反応が頂点までくれば、自身で自制は不可能で、身体が動くものである。

ストレスなども同じで、我慢の限界が頂点にまで昇れば、体で表現を取るようになる。

ストレスが穏やかな状態では、人は自制の領域にあり、凶暴な性格をも抑える事ができる。
ストレスが頂点にきた時、体で表現を行ってしまい、手が動いてしまうのだ。

高度ストレス社会の中、どうして自分だけが怒りを抑える事が出来ようか。

恐らく、怒りを抑えきる事は誰にもできないものかも知れない。

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