ふるさとの抵抗~紅い菊の伝説4~
 バンッ。
 不意に何かで頭を殴られて美鈴は我に返った。
 目を上げると福原の呆れた視線と目があった。
「あっ…」
 美鈴は一瞬のうちに状況を知った。そう、今は授業中なのだ。周囲からクスクスと笑う声が聞こえてくる。
「鏡、お前が授業中に居眠りなんて珍しいな」
 福原が溜息混じりに言った。
「はい、あの…。すみません…」
 こういうときにどう対処していいのかわからなかった美鈴はとりあえず謝ることでこの場を取り繕うことにした。
「まったく、夕べは遅くまで起きていたんだろう?」
 福原は美鈴の頭を軽くこづいた。
 確かに夕べは遅くまで起きていた。いや、寝かせてもらえなかった。またあの思考が頭の中に入ってきたのだ。それもかなり鮮明に…。
 その思考から美鈴はその主が翔と呼ばれていることを知った。そしてその主は魔鈴が映像で送ってきた子供と同じだということもわかった。その思考は母親とおぼしき人物から何度も、何度も叩かれていた。それでも翔は必死になって声を上げることを堪えていた。ただ母親に嫌われたくないためだけに…。
 母を求めるその思いは美鈴にもよくわかった。彼女の古い記憶の中に母を必死に探している自分の姿があったからだった。幼い子供が母を失うということは自らの生きる術をなくすこと。その時の美鈴はそう感じていた。それと似たような思いが翔の送ってくる思考から読み取れた。だから翔はどんなに酷いことをされても母から離れることが出来ないで居た。そういう思いが彼の思考に混ざって美鈴の中に入り込んできた。
 そのあまりにも強い思考が美鈴を眠らせなかった。それだけではない。美鈴は翔の思考を仲立ちとして児童虐待の現場にいたのだ。翔の受ける痛みが美鈴の身体を走る。翔に受けた傷が美鈴の肌に浮かび上がる。美鈴は母に気づかれまいと必死に耐えた。
 しかし、母に隠し通すことは出来なかった。美鈴の部屋の様子がおかしいことに気づいた美里が隣の部屋から入ってきたのだ。
「美鈴、どうしたの?」
 美里はベッドの上で苦しんでいる美鈴を抱きしめた。
 パジャマの裾が捲れ上がる。そこに次々と新しい傷が浮き上がる。その度に九いう縛った歯の隙間から美鈴の呻き声が漏れる。やがてそれがピークに達した時、嘘のように痛みが去った。傷が一つ、また一つと消えていく。同期していた思考が一方的に切れる。
「おかあさん…」
 苦しい息の中、美鈴は母を見上げた。
「一体何があったの?」
 美里の問いに美鈴は今起こったことを話した。
「おかあさん、これは虐待だわ」
 美鈴は話し終えると美里に行った。
「そうね、きっとそうなんだわ」
 美里もまた娘に同意した。
「何とかならないの?」
「そうね…、難しいわね」
「何故?」
「虐待はね、特定が難しいの。たとえその現場を押さえたとしても躾だといわれてしまうと手が出せない…」
 美鈴は母がいつになく消極的なことに苛つきを覚えた。
「どうして?だって小さな子供が暴力をふるわれているんだよ。このままにしておいたら…」
「わかっている。でも私たちが他の人の家庭に乗り込むことは出来ないの。出来ることはこのことを通報することだけ…」
「だけど、私が経験した事なんて誰が信じるの?」
 美鈴の声が心なしか沈んでいく。
「そう、誰も信じてはくれないわ。私たちの言うことなんて…」
 美里の言葉は悔しさで満ちている。
 美鈴の心の中にも母と同じ感情が沸き上がってくる…。
「鏡、どうした?」
 福原の声で美鈴は現実の世界に引き戻された。福原が心配そうに覗き込んでいる。どうやら美鈴は暫くの間呆けていたようだった。
「先生、どこか悪いところを叩いたか?」
 福原は明らかに動揺している。
「いえ、何でもありません…」
 だが、美鈴はそう言うと目の前が暗くなっていくのを感じた…。
< 12 / 66 >

この作品をシェア

pagetop