結婚白書Ⅳ 【風のプリズム】
小さい頃……そうだ 葉月が生まれる前は煙草を吸っていた記憶があった
今日みたいに二人で出かけると 僕を遊ばせながらベンチに座って煙草を
吸っていた父の姿が思い出された
そのせいか 父と重なる煙草の香りは嫌いではなかった
父のそばにいくと 仄かに香る煙草の残り香がするのが嬉しくて
今日は一緒にいられるんだと 苦味のある香りで実感したものだ
「器用に立ち回れたらいいんだが なかなかそうは出来ないものだな」
一本吸い終ると また先ほどと同じ言葉を口にした父は 二本目の煙草を
取り出したが 火をつけるでもなく指先で転がしている
「仕事 大変なの? 禁煙していた人が煙草をまた吸うのは
そんな時だって聞いたことがあるけど」
「あぁ そうだな 仕事が滞っていたとき 部下が吸っていたのが上手そうで
一本もらったのが始まりだった」
「娘に嫌われないようにした方がいいよ 葉月 反抗期だから
煙草なんて吸ってって嫌がったりしてさ」
「はは……家では吸ってない だが服に匂いが移るらしい
朋代には体に良くないからやめたほうがいいと やんわり注意されてるよ」
父の口から 朋代 と名前がでると なんとも言いがたい妙な気分がする
以前はそうでもなかったのだが 父と朋代さんのことを知ってから
この二人は俗に言う許されない関係だったのだと 頭の中でリフレインするのだ
器用に立ち回れないと 父は自分のことを言っていたが おそらく
その不器用さが 朋代さんとのことで苦労した部分だったのだろう
……家庭はそのままで 他に付き合う女性がいるなんて そんな男も多い
けれど遠野君はそれが出来ない男だ……
仲村のおじさんの言葉が思い出された
自分の気持ちを偽れず ましてや世間に都合よく振舞うことも出来ず
朋代さんと結婚に至るまで どれほど悩み 苦しんだのか
どうやってそれを乗り越えたの 何を信じて前に進んだのと
いつか父に聞いてみたいと思っているのだが 僕にはまだその勇気がなく
これまで何度も喉まででかかった言葉をまた飲み込んだ
父は今日のことを 何の便宜も図ってはいないと言ってはいたが どうにかして
僕のために力になりたいと考えてくれているのは伝わってくる
何かのきっかけを求めて 今日は博物館に誘ってくれたのだろう
幸運にも知り合いに出会ったのに それが偶然の出会いであっても 父自身が
アクションを起こすまでには至らずにいた
そのことが 上手く立ち回れないという言葉になったのだろう
父らしいと思った そして 父の不器用さが僕にはとても好ましかった
僕も一緒だ 自分だけ特別にってのは性に合わないよ
僕のためになんとかしようとしてくれているのは嬉しいけれど
そんなのいいよ 自分のことだ 何とかするよ
僕はお父さんに似てるって
ちょっとしたところが似てるの 賢吾が妙に冷静なのも父親譲りかもねって
お母さん そんなこと言ってたよ
父の背中にそう伝えたかった