ジムノペディ
その日の深夜も、雨が降ってきた。

綾香は、もう一度あの夢を見れると期待して、

社長室で眠ることにした。

まるで恋人に会う前のように鼓動が速くなっていくのを

押さえることが出来なかった。

そして、社長室に戻ると、ドリアンがいない。

(え?)

「ドリアン?」

無意識に、そっと呼んでみた。

「さっきからここにいますよ」

綾香が驚いて、恐る恐る振り返ると、ドリアンが微笑んでいた。

長身で足が長く、完璧な体型は溜息が出るほどだ。

そのドリアンが、綾香の振るえる手を、そっと掴むと

「外の世界を見てみたい」

「え?」

「この建物以外のところを見てみたい」

ドリアンの透き通った瞳に真っ直ぐ見つめられると

一瞬、その場から動けなくなって目眩がした。

「え・・・ええ。じゃぁ行きましょうか」

綾香は、車の鍵を持つと、ドリアンを連れて駐車場へ向かった。

助手席で微笑む彼を見るたびに、胸がドキドキして、鳴り止まない。

「どこに行きたい?」

「君が・・・アヤカがお気に入りの場所ならどこでも」

「私のお気に入りか・・・・そうだな・・・・

正直この年齢でデートらしいデートなんてしてないからなぁ・・・。

夜景の綺麗な場所ならあるんだけど」

「アヤカが綺麗だと言うのなら、僕も その場所に行ってみたい」

綾香は、高速道路へ入ると、横浜方面へ向かった。

目にするものが、ドリアンには初めてのことで何もかもが新鮮だった。

車を降りると、都会の夜景が広がっている。

観覧車がライトアップされて、海面に映ってキラキラと輝いていた。

「綺麗。とてもいい場所だね」

そう言うとドリアンは、綾香の肩を包み込むように腕をまわしてきた。

まるで恋人同士のように・・・・・

綾香は、そっとドリアンに寄り添う。

(なんでかな?ドリアンといると安心する)

「アヤカ・・・ありがとう」

「え?急にどうしたの?」

「素敵な場所に連れて来てくれて、感謝してる」

「ドリアンは、私が悲しいとき、いつも慰めてくれるでしょ。

あなたに、どれだけ救われたか知ってる?私こそありがとう」

(アヤカ・・・・)

「人形の僕には、それぐらいしか出来ないから。でもアヤカが辛いと

僕の心も張り裂けそうなほど悲しくなる。

だから、これからもアヤカが悲しくならないようにしてあげる」
綾香は、たまらなく彼を愛しいと思った。

周りはカップルばかりだが、すれ違う人々がドリアンに注目している。

彼の美しさを、熱い視線で見つめていた。


心地よい潮風の中、綾香を見下ろすドリアンの優しい瞳。

サラサラの柔らかそうな髪が風に揺れて、見え隠れする美しい表情。

ふいに、ドリアンが立ち止まって、綾香の肩に手を置くと

二人は向かい合った。

吸い込まれそうなドリアンの瞳が眩しくて、思わず瞳を閉じた。

柔らかいドリアンの唇が触れるのを感じると、そのまま崩れ落ちそうになった。

長い長い甘いキス。

強く抱きしめられて力が抜けていくようで、もう何も考えられなかった。

逞しい腕に支えられている安堵感を 身も心も感じていた。

このまま時間が止まればいいのに。

朝がこなければいいとさえ思った。



::::::::::::::::::::::::::::




昨日の甘い夜のことを考えるだけでドキドキしてしまう。

彼・・・・ドリアンの正体が何であろうと

この気持ちは彼にしか・・・こんなに熱くはならない。

だけど 不安もたくさんある。

考えてみたら、彼は人形なのだ。

どんなに望んでも現実の恋人同士のようにはいかない。

それは未来の見えない恋愛で、いつか自分の前から消えてしまうんじゃないか。

この手で掴むことのできない 儚い恋なのだろうか。

こんな事実を誰かに言えば気がふれたと思われるだろう。

まぁ、言えるはずもないけれど・・・・。


いつも傷ついた気持ちを癒してくれるドリアン。

ずっとずっと傍にいてほしい・・・

ずっと----――


(さぁ!出かけるか。気が重いけれど)

綾香は重い足取りで、社長室を出た。

「社長!おつかれさまでした」

「おつかれさま」

まだ何人かの社員が働くフロアーを過ぎると、階段を下りてエントランスフロアーを後にする。

数段の階段を下りたところに、卓のアストンマーチンが止まっていた。

(とても夕食なんて、喉を通らない)

更に足取りが重くなる。

しかし運転席から出てきたのは、卓ではなく北川要だった。

「え?あ・・・あの、卓さんは?」

要が鋭い目で綾香を見ると

「常務は、先に店のほうで お待ちしております。お客さまもご一緒なので・・・」

(お客さま?まぁ・・・二人だけの食事よりは気が楽かもしれないけれど。

それにしても私のところに、この人を来させるなんて)

要が後部座席のドアを開ける。

「どうぞ」

綾香は黙って車に乗り込んだ。

車は滑るように発進する。

ふとバックミラーに映る要の目鼻立ちが気になった。

かなり整っている綺麗な顔だ。そして凍りつくほどの冷たい眼差し。

まるで血が通っていないような残酷ささえ感じられる。

「その服で行かれるおつもりですか?」

静まりかえった車内の中で刺すような冷たい要の言葉が沈黙を破った。

綾香は、ふと自分の服装を見る・・・・・丈の短いジャケットに白いTシャツ、

ジーンズ。あきらかに普段着だ。

「ダメ・・・・かしら?」

ミラー越しに映る要の瞳が、嘲笑うように見えた。

「・・・・・・・」

要は何も言わずにただ運転に集中している。

綾香は、その後姿を恨めしく思ったが、

ずっと気にしていたことを訊くチャンスは今しかないだろう。

「北川さん・・・卓さんとあなた」

「愛し合ってる・・・・とでも?」

綾香が言い終わらないうちに遮られた。

「え?えぇ、まぁ・・・」

「ふふ・・・あなたとの結婚は、仕事上でのメリットが大きいそうです。

ああ・・・常務と僕は、あくまで上司と部下。ただそれだけですから」

その刺々しい言葉は、二人がただならぬ仲だと突きつけられているように感じた。

かなり激しい敵意さえ感じられる。

30分ほどして、車は目的地に着いた。

そこは、石造りの外壁に包まれた円柱型の建物で、中へ入ると見た目よりも広くて

シンプルでモダンな店内が広がっていた。

二人が入っていくと数人の店員に迎えられ、二階へと案内された。

幅の広い螺旋階段を上っていくと、個室へ通される。

そこへ、見慣れた顔が目に入った。

「お父様!」

「ああ!綾香・・・待っていたよ。今日は卓くんに招待されてね。

ワタシはお邪魔じゃないかね?」

「お邪魔なんてとんでもないです!!」

先に答えたのは、卓だった。

「ええ。お父様・・・卓さんもせっかく誘ってくれたんですから、

そんな事言わないで」

父は、満足そうにして二人の顔を交互に見て笑った。

「お父さん。実は今夜こうして来ていただいた理由は

急ですが来月に結婚式をと思いまして・・・」

「んっ?それはまた急だね」

綾香は、驚いて卓の顔をじっと見つめた。

しかし、彼は綾香とは目も合わせようとはせず、言いたいことを

次から次へと父に言っていた。

「とりあえず結婚式を身内だけでして、披露宴とハネムーンは半年後、

仕事に区切りがついたところで盛大にやろうかと・・・」

(そんな話・・・聞いていない。とにかく早く入籍することが目的?私の意見は無視?)

いくつもの疑問が綾香の頭の中をぐるぐる駆け巡る。

「卓くん!綾香は、時々君を困らせてしまうこともあると思うが、よろしく頼むよ」

「綾香さんは、僕にはもったいないくらいの女性です。安心してください。

では、今週末にでも僕の両親と話し合いましょう」

「ああ。そうしよう。ではワタシは、先に帰るとするか・・・」

父は、そう言うと綾香に、こちらへ来るように手招きをした。

そして、卓にもう一度挨拶をすると綾香を連れて部屋の外へ出た。

「最近、家に帰って来ないようだが・・・母さんも心配している」

「ごめんなさい。最近、会社でちょっとトラブルがあって」

「ああ。知ってる。だけど、それが帰宅できないほどのことなのか?」

「私は、会社の最高責任者として最大限の努力をして

少しでもリスクを減らさないといけないんです。

お父様のように大企業を経営しているわけではないですけれど、

経営者が、大きな責任を担っている。

そういう重要なポジションにいる立場は同じです。

少しは、理解してください」

(なぜだろう?父にこんなに敵意剥き出しに言葉を返すなんて初めてのことだ。

でもなぜか、さっきの父と卓の会話のひとつひとつに苛々した)

「悪かった。綾香がいつまでも子供だと思っていたみたいだ。

でも、たまには家に帰ってきなさい」

「はい。おやすみなさい」

車に乗り込む父の背中が、少し小さく見えた。

このまま流されて、いったい自分は何処へ向かうのだろう?

もう後戻り出来ないところまで来ている。

これが運命なら、黙って従うしかないのだろうか?

綾香は、再び店に入ると階段を上って卓の待つ部屋へ入っていった。

「まんまと父を丸め込んで、満足ですか?」

「心外だな。まぁ座って・・・ディジェスティフでもどうぞ」

卓はテーブルの上のワインを指差した。

「口あたりのいい甘口です」

綾香は、そのグラスを手に取ると、一気に飲んだ。

「どうしたんですか?そんな飲み方をすると悪酔いしますよ」

「さっき・・・父に言ったこと、私に相談もなしに話を進めて どういうつもりですか?」

「君は僕と結婚するのだから式が早くなったっていいじゃないか。

君はただ 僕に従っていればいいんだ」

(なんて人・・・)

「今後も、私の意見は無視するつもりですか?」

「ああ、聞くつもりはない。それから・・・・・新居には秘書室も用意する。

つまりそこが僕の寝室。これは重要なことなんだけどね、

君と結婚しても、一緒に寝ることはないですから」

綾香の顔は一瞬で赤くなり目眩すら感じた。

「こんな屈辱を受けたのは」

「初めてですか?お嬢様・・・」

綾香は、もう言葉も出なかった。

気持ちを抑えようと胸に手をあてるのがやっとで

「私、帰ります」

席を立った。

「送りますよ」

「結構です」

「綾香さん。一ヵ月後には夫婦になるから言いますけれど、僕は亭主関白でね、

一家の主ともなれば、主導権を握るのが当然でしょ」

綾香は、振り返ることもなく部屋を出ると、急いで店を出た。

外は、雨が降っている。

小雨に濡れながら、足早に大通りに出ると、どうにかタクシーを拾うことが出来た。

(とにかくドリアンに会いたい・・・今すぐに)

綾香は、誰もいない会社の鍵を解除すると社長室まで急いだ。
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