ドメスティック・エマージェンシー
チラリと葵に目をやると、視線がぶつかった。

それを待ってたかのように、葵が私の頭をソッと撫でた。
優しく、力を込めずに。

雲が割れて太陽の光が差すような笑みを浮かべてから、ラベンダーの匂いが私を包んだ。

「言ってくれて、ありがとう」

波のように、あるいは鳥のさえずりのように、葵の声は穏やかだった。

ぎゅっと目を瞑ると、それなのにとめどなく涙は溢れた。
[イイコ]として生きる代償に、泣くという行為を失われた。

私は泣く。
[イイコ]を解き放つように。
押し殺した嗚咽じゃなく、心の底から叫ぶ。
苦しかった。
痛かった。
泣きたかった。

左手首も、私の体も、私の心の痛みをもう引き受けてくれない。
だからこそ、私は葵に話したかったのかもしれない。
私は、葵が受け入れてくれることを知ってたのだ。

葵は認めてくれた。
受け止めてくれた。
痛みを吸収し、包み込んでくれた。

私は生きている。
愛されている。
この人によって――







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