『桜が咲くにはまだ早い三月』
第五章  『戸惑い』  一節



混乱した頭の中で、何故だか急に健の事を思い出した。


健は私の二つ年上で、

学生時代毎日のように立ち寄っていた喫茶店のカウンターの一番奥で、

いつもマスターとバイクの話をしながら笑っている、

ちょっと近寄り難い感じの男だった。


鋭く大きい瞳が笑うと急に細く優しい目つきに変わり、

私にはそのギャップが何とも魅力的に見えた。


いつしかその笑顔を見るために、私はその喫茶店に通うようになっていた。


ある日一番奥の席が空いているのに、

その時はまだ名前も知らないその彼が、

まっすぐ私の隣に来てそのまま腰を下ろした。


「また一緒になったね。」

と、あの微笑みで笑いかけながら、椅子を少しだけ私の方に近づけた。


「いつもひとりで居るから、かえって目立ってたよ。」


静かな低い声はずしりと私の全身に響きわたって、

どんな言葉で返事をしたらいいのか分からず

私は黙ったままうつむいているだけだった。


コーヒーを運びながらマスターが私に言った。


「由香ちゃん、健には気をつけるんだよ。

けっこうな遊び人だからね。」と。


するとそれを遮るように


「へぇ由香ちゃんっていうんだ。

可愛い名前だね。

マスター、余計な事言わないでよ。

マスターの言う事は信じちゃダメだよ。

僕は真面目で良い人です。」


なんて言いながら、私の方に向き直して


「一條 健(たける)

よろしく。」

と右手を差し出した。



そっとカウンターに乗せた私の右手を奪うように、

健はそれをグイッと自分の胸元まで引き寄せた。


あ、手慣れてる…?


「由香ちゃん、急なんだけどさ明日時間ある?

仲間うちの飲み会に来てくれない?

俺の友達に紹介するよ。」



私はスルスルと健のペースに引き込まれ、

言われるがままその仲間だと云う人達の中で

健の強引な行動に染まって行ったのだ。


自分の意志など関係ないままに。



そしてその帰り、私を駅まで送って行くからと

その場所を離れ健は私の手を握りしめ歩き出した。


大通りを避けシャッターの閉まった路地裏のビルとビルとの隙間で、

誰もいない暗闇で、

私達は何も話さす黙ってキスをした。


一度離れて、どちらからともなく求めあい抱き合って、

もう一度長いキスをした。


離れたくなかった。







「由香?

聞いてる?」



「あ、ごめん。

健のこと思い出しちゃった。


ねぇサクラ、今なんて言ったの?

浩太のこと好きだって言ったの?」





サクラは真っ直ぐ前を向いて



「冗談よ、冗談。」


そう言って二本目のタバコに火をつけた。



真実がどうやって創られて行くのか、

その時すでに創られていた真実を知らぬまま

私はサクラの指先を見つめていた。




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