『桜が咲くにはまだ早い三月』
第六章  『心』  一節



大人になると云うことが、今まで経験した事のない高い壁との遭遇だったり、

何かを犠牲にしてしか成り立たない、納得のいかないものだったり、

大切な人に出会ったり、

そしてそれを失ってしまうものだとしたら、

私はまだ大人になんてなりきれてはいないんだろう。



大人への線引きが目には見えないように、

いつか年齢を重ね合わせゆっくり後ろを振り返った時に分かる何かを、

今は必死で探している途中なんだと、誰かが言っている気がする。



私は浩太からのここに来ると云うメールに返信をしなかった。


その代わりに直接電話をかけようと決めた。


「サクラ、ちょっと電話していい?」


あれだけ電話はかけないと決めていたのに、

私は何の迷いもなく着信履歴にある浩太の番号を押した。


「うん」


目の前にいるサクラはうつむいたまま動かない。


呼び出し音が耳に響いて心臓まで届くように、

カーッと身体が熱くなるのが分かる。


サクラのあの表情を見なければ、

きっと電話なんかしていないと分かっていながら、

私の右手は携帯を強く握りしめていた。



1回…
2回…

3回…

4回目の手前で


「もしもし」


私と同じあのベルの音に浩太が答えた。


「もしもし」


あの日が蘇って来るような低く静かな浩太の声が聞こえた。



サクラが私の心を動かしてしまったんだよ。

サクラがあんな事言わなきゃ電話なんかしなかったのに。


ひどい事をしてるよね。

残酷だよね。


最低だ…わたし…


サクラ ごめん。


だけど、浩太は駄目だよ。

浩太だけは駄目・・・


携帯で話し出した私の顔を見ないまま

小さくため息をついて、サクラは何も言わず店を出て行った。


足早にあっという間に居なくなった。



私の知らないどこかで、サクラの恋が始まっていた。

私が健に心ひかれたように、サクラが浩太に恋したって

何の不思議もないんだから。


だけど

だけど、サクラ



浩太はだめだよ・・・






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