『桜が咲くにはまだ早い三月』
第九章  『力』  二節



幼い頃に夢で見たような景色が頭の中に広がっていた。


どんなに踏ん張っても、両手を伸ばして何かをつかもうとしても、

足がもつれて動きがとれない。

恐ろしい何かが私を捕まえようと、すぐ後ろまで迫って来ている。


そんな夢はいつだって、振り返った所で目が覚めるんだ。

涙にまみれて泣きながら。


そんな夢のように、

そんな夢でも見ているように私の足は動かなかった。



「由香、タクシーに乗ったらもう一度電話して。

分かった?

その時話すから。

大丈夫だから落ち着いて。」


どこを通ってどうやってここまで来たのか、

携帯を強く握りしめたまま私は、

サクラに言われた通りタクシーに乗り


「救急医療センターまで」

と運転手に告げた。


人の良さそうな運転手は

「分かりました。」

と返事をした後


「お客さん、お昼過ぎすごい渋滞だったけど大丈夫でした?」

とバックミラー越しに話しかけてきた。


サクラに電話をかけなくちゃと気持ちが急いていたけど


「はい、巻き込まれちゃって大変でした。」

と、一応返事だけして携帯を開いた時、運転手は言った。


「すごい事故があったみたいですよ。

トラックの後輪にはねられて体が挟まれちゃったらしくて、

なかなか出せなかったみたいだって会社のやつが言ってました。


救急車だの警察だの狭い道ふさいじゃったから、

こっちも仕事になりませんでしたよ。

事故にあったの若い男性みたいですね。」



「えっ…」



運転手はその後も何か話していたけど、

私の耳にはもう何も聞こえては来なかった。



小さい頃、大人になると云うあこがれや輝きは誰にでも自然に備わり、

それは自信や希望に変化しながら年齢を重ねる。


そうしてやっと出会えた奇跡みたいな幸せが、

今ここで粉々に崩れ落ちて行った。


なによ…

あの渋滞は浩太のせいじゃないの。


新幹線には乗れないから間に合わなくてもいいよって、

私にそう知らせていたの。



「お客さん」


運転手の声に驚いて思わず携帯を落とした時、サクラからの電話が鳴った。


「お客さん、さっきも電話鳴ってましたよ。

具合でも悪いですか?

大丈夫ですか?」


私は黙ってうなずきながら


「急いでください。

お願いします。

急いで…」


大きな声で叫んだ私に驚いて、

運転手は前のめりになってアクセルを踏んだ。



浩太

約束は?

駅で待ってるからって約束したじゃない。


必ず来てねって言ったのは浩太だよ…




私に耐えられる力の全てをあげるから、

浩太


私を待ってて…




< 29 / 42 >

この作品をシェア

pagetop