『桜が咲くにはまだ早い三月』
第九章  『力』  三節



サクラからの電話に出る前に、

私は大きく息を吸い込み、出来るだけの冷静を装って運転手に聞いた。


「あの…

大きな声出しちゃってすみません。

運転手さん、その事故の場所ってどこか分かりますか?」


私の震えた声がやっと言葉を絞り出した。


運転手は私の顔色を確かめるようにバックミラーに一瞬だけ目を走らせ


「駅南口の通りに出る角に、本屋さんがあるでしょ。

あそこの横断歩道だそうですよ。

狭いわりにトラックとかけっこう通るしねぇ、

前から事故の多いとこなんですよ。」



そんな気がした。


私はあの本屋の前で浩太を見かけたんだ。

浩太は私の車を追いかけてそこで写真を撮った。

あの時だって信号が青から赤に変わるギリギリになって、

浩太は横断歩道に飛び込んで来たんだ。


慣れ親しんだその道で、通り慣れたその道で、

いったい何があったというの。


何やってんのよ…

浩太…


黙ってしまった私に


「あの・・・

誰か、知り合いの方とか…」


と運転手は私に聞いたけど


「いいえ、違います。

知りません。」

と、私は窓の外を走り抜ける、見慣れた景色に目を移した。


涙がにじんで雨が降っているように見えた。


そして私はずっと待っているだろうサクラに電話をかけた。



「もしもし」


サクラはいつもより早口で


「由香、あと何分くらいで来れる?

病院のロビーで待ってるから。

入り口にいる。」


と言い、私は分かったと言っただけで電話を切った。



明日の平穏を保証する生き方は誰にも分からない。



感情を押し殺し、屈辱に耐え、

孤独と戦いながら明日を迎える日々の繰り返しを、

人は人生と呼ぶのだろうか。


公平とか不公平とか、そんな漠然とした感情ではない、

理不尽な出来事に耐えうる力を私はまだ学んではいない。



運転手が心配そうに

「着きました。

お大事になさってください。」と、

何かを察したように私に言った。



病院の入り口を見ると、遠くからでもサクラの姿はすぐに分かった。


サクラが右手を肩まで上げて合図をしている。


私は頭を下げただけで、急いでタクシーを降りた。



サクラの顔が涙でゆがんでいた。



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