『桜が咲くにはまだ早い三月』
第二章  『心拍数』



あの日浩太は私を家まで送って行くと言って、えらく上機嫌でグラスを何杯も空にして、私は少し離れた場所からひと事みたいな気分でそれを見ていた。


よくある仲間うちの飲み会だからと、誘われるまま軽い気持ちで顔を出しただけだし、ここにいる友人の何人かは同じ歳だったし、人並みに誘いがあるのはひとりが好きな私でも嬉しい事だったし、だから浩太がいてもいなくても、そんな事はどっちでも良い事だったんだ。



史彦が浩太にそっと耳打ちしていたのを、まわりの誰もが気付かないふりをしていたのは解っていたけど、でも誰かと誰かがどうにかなったって、こんな場所でのそんな出来事は 珍しい事でも何でもないんだ。


これっぽっちも。


そう、よくある ただの戯言。


どこにでも一人はいる、仕切りたがりを絵に描いたような史彦が

「二次会 行こうぜ。」


なんて、帰り支度し始めたみんなを呼び止めている。


それをきっかけに 少し頬を赤くした浩太が私の後ろから静かに声をかけてきた。


「今日は送らせて。」と。


柄にもなくちょっと心拍数が増えた気がして、私は慌てて上着をつかみ 返事もせずにそのまま外へ出た。



浩太が来るのを待たずに歩き出した事が、心拍数を元に戻すためだと誰にも気付かれないように。
それだけのために。



店の出口で次の店へ移動しようとしている史彦達に

「お先に」

なんて一応声をかけて、そのまま一人で帰るように、浩太との約束なんかなかったみたいに駅へ向かって歩き始めた。


私はそんな気まぐれな女だから。


誰かが後ろで叫んでいるのが聞こえている。


「浩太、急げよ。」


なに?
こんな事にドキドキするなんて、私らしくもない。


爪の先まで響くくらいに、心拍数が速度を上げている。
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